2020-2021

自由美術

コロナ禍に於ける創造と表現

アルベール・カミュが小説ベストで描いたごとく新型コロナウィルスは瞬く間に拡散し社会を不安と恐怖に陥れた、そして変異を繰り返して私達の日常への攻撃を続けている。

感染の拡大を防止する為様ざまな社会活動に制約が設けられ美術館をはじめとする文化施設も厳しい制限を設けた。表現者や鑑賞者にとっては第二次大戦以来の危機の到来である。

その戦時体制の下1937年に自由美術は抽象主義絵画を日本に広めることを目的としてスタートした、しかし五回目には「自由」の標題を外した展覧会を3月に行った。言論統制と戦争が激しくなる中その一ヶ月後に新進気鋭の八名の若い画家によって「新人画会」展が開催された。靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本俊介である。彼らは鋭い洞察力と深い人間性に根差したレアリズム絵画を確立し自由美術協会の中核として活躍すると共に戦後美術史に大きな足跡を残した。

戦時体勢の下、厳しい環境の中で果敢に創作と発表を続けた新人画会家の精神は現在の自由美術の仲間達に脈々と受け継がれている。このコロナ禍の中困難や制約を乗り越えて多くの仲間が制作と発表に力を注いでいる。

新型コロナウィルスにも自由を束縛する制約に対しても屈しないという私達の意志を示すために例年の機関誌に替えこの冊子を企画した。

オリンピックの毒メダル 山崎 史

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東京モノレール沿線の天王洲アイルにある天王洲セントラルタワー・アートホールは石とガラスと金属でできたモダンなビルの一階にあって天井も6メートルと高く、床面積も150坪はある。近所に住まいのあるぼくは散歩のたびにこんなところで個展ができたらと夢見ていたが、その夢がかなうようになって舞い上がる気持ちだった。個展は2020年の秋1ヶ月、作品を自選し配置図を作り、友人がトラックの運転手もかって出てくれて展覧会ははじめるばかりだった。だが19年の暮れごろから世相はじわじわと変わり、コロナはひしと身近に迫ってきた。ホールの担当者はじっくり様子を見ましょうと言ってくれたが、ぼくは14世紀のヨーロッパの黒死病などを思い浮かべ(笑い)、感染症はそう簡単に収束はしないだろうと辞退を申し出た。個展はあえなく消えた。

3月、人気もまばらな早朝の羽田空港を発って帰洛したが、満員のバスの中はマスクをする人もなく京都はどこかのんびりしていた。市内のアパートに1泊した後、丹波にあるアトリエに直行した。そのまま1年余りが過ぎた。世間はコロナ1色になった。あれほど興奮した個展もあっさり忘れた。グループ展などの誘いもすべて断って近所と付き合いもなく、ぼくたち夫婦は絶海の孤島のロビンソン・クルーソーとフライデーのようになった。家内は普段出来なかった住居の手入れや花や野菜を育て、僕は滅多にできなかった作品の丹念な仕上げに日々を費やして満足だった。合間でオリンピックシンドロームにかかった偉い方々のために鉛のメダルを作って悦に入った。コロナは作家とは何かを問う優れた機会だったと思う。

ところで安息を貪っていたぼくは5月、突然脳梗塞になり、どこかの政党の幹事長のように口をまげてたどたどしく話さざるを得なくなった。目下リハビリ中である。回復して仕事がしたい。それだけで十分と悟るようになった。

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水野利詩惠

まさかこんなに長い間コロナが続くとは思わなかったのは私だけではないだろう。

富山県滑川市立博物館で私の大きな個展が2020年4月4日にオープンし、5月10日までのはずだった。大作44点の作品を展示、これまでの集大成としての位置づけを思っていた。次の段階に飛躍するための布石となれば・・・・と考えて、公のところでの展覧会と、百貨店での展覧会との抱き合わせを考えた。今思えば、「分身の術]でも使うつもりだったのだろうかと思うくらいである。4月16日に全国に緊急事態宣言が出て博物館も中止、また、百貨店での個展は無くなった。百貨店が閉じたからだ。青天の霹靂だった。

絵描きにとっては、不要不急の外出を控えての「引きこもり」は、当然のことである。引きこもりって孤独にならなければ絵は描けない。しかし、出来た作品を世に問うてそれを自分の中で受け止め、咀嚼し整理して自分の糧とする。その行為があって自分の作品の世界は昇華すると私は思っている。その視点からこのコロナの中、作品を発表できないことのもどかしさや辛さは、制作している人たちの共通の辛さだと思う。

その悶々さの中で、博物館は最後の日程の4日間は開けていただくことになった。有難いことであった。しかし、人の「コロナ」に対する反応は様々であった。「どこにも行けない、行けるはずがない」という人、完全装備で出かける人、また、「何なのだよ」とものともしない人、「コロナ」の本性が誰も分かっていない時だったので、終わりの4日間を開けたところで人は疎らだった。また、私の方から積極的に「見てください」と、言えないもどかしさもあった。そうこうしているうちに、わたしの集大成であったはずの個展は終わった。百貨店の方は、2週間後オープンしたときに「閉店していた2週間の間の作家を最優先して好きな時期を取ります」と言っていただき、1年後のGW期間に約束してきたのだが、まだまだ甘かったようだ。

人類は100年周期でウィルスと戦っているようで、100年前はエゴンシーレがスペイン風邪で亡くなっている。まるでウィルスが、この世は人間だけのものではないと何度もチャレンジしているようだ。人類というのは生命体の中で、最高の位置づけなのかもしれない。だとしたら、芸術に携わっている私たちはどんな役目があるというのだろうか?!「コロナ禍」になってそんなことを考えた1年であった。

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平澤重信

コロナ禍の個展 一送り手と受けて一corona19.jpg

 
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わたしだけではなく誰も初めての異常事態。

目に見えないコロナウィルスで日常生活が無理やりおさえつけられて苦しい日々がつづく。 その中でも自然災害、経済破綻、政治的緊張などは起こりえる(現実に起こっている。 何があらわれてもおかしくない時代、そしてその不安を持って行き先がない。

待て、ともかく、これからどうする。アトリエで黙々と仕事をするしかない。

今に始まった事ではないが。

コロナ禍の個展は観客が少ない。 コロナ以前から絵の題名について質問されることが多かった。

美術の世界もグローバル化で、題名をみると英語、仏語、独語、日本語でも知らなかった 漢字がある。おもしろくもあり、難解である。特に美術界の題名ではかなりわかりらい単語が見う けられる。当然なんのことか意味がさっぱりわからないことが多い。見る側に配慮しない風潮だ( 題名を含めて見る側に自由な解釈してもらおうということだろうか)。

さてコロナ禍の「禍」という意味を私は恥ずかしながら知りませんでした。 「わざわい」ともよみ、「災い」とほとんど同じ意味で使用している。 災い(わざわい) は防ぎよ うのない天災の時に使用。(わざわい)は人々の努力や工夫によって防ぐことができる事象に使 うとのこと日本語はむずかしい。 作家の所感、回想、衝動などが題名にあらわれるのであろう。 私の絵で「家という建物」という題名を英語であらわすことがあった。

家をhome (ホーム)と使うか、 house (ハウス)と使用するかで絵の内容がガラッと変わってしまう。

Homeとは、主な意味(生活の場としての家)、我が家、自宅、家、住宅、家庭生活、生まれ故郷、郷里、本国であり、家という「建物」とその空間をさす。そして人が住んでいることを意識する。

Houseとは、家、家屋、住宅、建物、小屋、ビニールハウスであり、家という「建物」自体を指し、 人 が住んでいるかは意識しない。

題名をつけるとき、作品によっては説明的要素も入れたり工夫している。

「家という建物」を描く時は

ハウスという概念と時の移り変わりと種々のものみえかくれしている場所。 それらをあらわしたい

と思った。

そのためには無意識の身体感覚を同居させて消失と出現のはざまになるフォルムを大切にしていた。

私にとって作品は私だけでなく見る側を含めて、共有される言葉にできない感情や経験をし たいと描いている。

菊池まり子

2020年初頭より始まった世界的な病禍。そのただ中、私は2つの個展を乗り越えた。

2020年12月東京銀座。個人ができる限りの感染対策をしながら、なおも不安を打ち消すには至らず、死地に赴く覚悟で会場入りした。結果は案ずるより何とやら、作家として例年以上の充足感を得ることができた。

画廊が三密になることはない」画廊主が気を張る私を和ませるべく放った冗談も、今やいい思い出だ。

こんな時世でも芸術を愛し画廊をめぐる人は確かに居て、そこに私は一握りの救いを感じた。

銀座での手応えに気を良くしていた私に大きな壁として立ち塞がった2つ目の個展。2021年5月茨城県笠間市。

感染拡大地域の指定が8日間の会期に全て重なる。同じ会場で行った前回の個展よりも来場者は明らかに少ない。

最初の3日間はまだ余裕があったが、会期半ばを過ぎる4日目に大きく崩れる。快晴だが人は来ない。画廊に併設しているカフェの来客も途絶えた。画廊主と二人長い時間を過ごし、自然と議論が始まる。ぼろぼろと指摘が入り、そこには消化できるものもあれば呑み込めないものもあり。その日は来廊を待ち続けた重い身体と心を引きずって帰り、泥のように眠った。

翌朝目が覚めると、昨日まで私を支配していた負の感情より、来廊する人々と出会い語り合いたいという前向きな気持ちが勝っていた。この湧きあがる感情に加勢するべく、いつもの固い服をやめ、自粛生活で眠らせていたゴシック服に袖を通し、顔には舞台化粧を施して自らを鼓舞した。

完全武装で臨んだ会期5日目。個展というものは最終日まで本当に読めないもので、大雨にも関わらず来場者が次々に現れた。ソーシャルディスタンスを保ちつつ作品の話を深める。私の服装から話が広がる。服装から自信が生まれ、自信が対話の潤滑油になる。会期終盤に完全にテンポを取り戻し、そのまま個展最終日まで走り抜けた。

パンデミックの息苦しさや不安がじっとりと纏わりつき、心身を消耗させる。今までにない苦しい個展だったが、内外ともに得られた変化もこれまでにない手応えだったと思っている。

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西尾裕

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―コロナと個展―

2020年3月17日から22日まで広島県立美術館ギャラリーで個展を予定していた。3月、広島県立美術館は、企画展常設展が中止され閉館状態。ギャラリーは主催者判断で開催してもよいとの事だったので、私は「個展で密になることはない」と開催を決めた。5室あるギャラリーは、私を除いてすべて中止となり、私の個展は、広島県立美術館唯一の展覧会となった。こんなことは初めてだった。

果たしてお客さんは来てくれるのかと心配していたが、いつも見に来てくれる人はほとんど来てくれた。自粛ムードの中、外出の機会も減少していたようで、「気分転換になり、今日は良かった。」「やっぱり、人の仕事を見るのは大切。久しぶりにリフレッシュできた。」など、来場者からは好評であった。

2021年3月16日から21日まで個展。会場は広島県立美術館のギャラリーに決めた。展覧会の中止が相次ぎ、人との交流は減ったが、自分の時間は増えた。時代を反映してか黒を基調とした作品が増えてきた。これまでの色彩を排除して作品を考えると、白黒のかたちしか残らなくなる。なるべく説明を排除し、形の平面構成で何かできないかと試行錯誤の個展となった。色彩はいつかきっと欲しくなる時が来るのでそれまでは封印だ。こんな風に割り切ることができたのはコロナのおかげかもしれない。

コロナで考えさせられる事も増えた。世界中で多くの人が亡くなり墓地をパワーショベルで掘っている映像。埋葬が間に合わず、布を巻いて床に並べてある遺体。ワクチンがなく摂取できない国々。一方、自前で宇宙旅行を楽しむ人たちもいる。世界や人間に対する常識が崩れていく気がした。

目の前で歴史が動いている。ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは「倫理」の時代を掲げ、人間らしさの復権を語っている。コロナ後の世界は今までと同じものにはならない。コロナ後の個展もこれまでとは違ったものになるに違いない。

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「川辺にて」 肥沢直子

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隅田川を挟み、浅草へ渡る橋近くの画廊で、昨年個展を開きました。知人の紹介を受け、初めて画廊に行った時、亡き母が生まれ育った地と知り、縁を感じたものです。

グループ展では、広い繋がりを頂き有難く思います。私にとってはじめての個展でした。機会がありながら、病気等で実現しませんでした。近年、発表される方々の作品から、刺激や励みを感じています。私も自ら発表し、新たなことに出会いたいと思いました。

2020年春になりコロナ禍の中、展示見通しや、制作に様々な支障がおきました。 身内から「延期か中止」の声も出て私は「悩んでいます、延期しても心身の維持できるかは、分からない」等、話しました。

後日、内容変更を考えながら、準備は進める事となり、素材変更大きさ変更もありました。身近な人々の支えは心強いものでした。延期も覚悟人の中で多くの力を頂き、無事に初日を迎えました。

状況下の中に、来て頂き有難く、実施できて良かったです。

会期中に感じた事・・・・・・・感謝です。 ・作品を造る大切さ。臨機応変の作品制作・様々な人々と出会う喜び。質問への的確な説明力。など・・・・・・・

今後も人と共に、素材や作品に触れる、そんな展示もしてみたいです。立体が更に身近になって欲しいです。

コロナ禍で無ければ、より多くの方に、別の形で見て頂けたと思います。私にとっては大切な貴重な宝物の場となりました。

202011/18〜23 ギャラリー・アビアント(東京都墨田区)

小林成行 個展がもたらしたもの

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実に十年振りの個展である。個展はお金も掛かるし、常時会場に居なくてはならない、最も不得意な来客との対応がある、そんなことから長年個展をしなかった。一方、団体展やグループ展には、積極的に参加した。一、二点出品するだけで時には観客でも居られた。数年前リタイアしてからは制作時間も増え、毎日自然光の下で描く贅沢な時間も味わった。色が違う、色に驚いた。次第に絵の変化の必然性と共に発表の場を求める。2020年、一年後の三月に"T画廊での個展を計画し、更に自らカンフル剤を打つ様に五月に“S画廊でも行う事を決める。コロナの状況は少しずつ深刻さを増し団体展、グループ展の中止延期がある「発表の期が無くなると作品が止まる。」と聞いた。私の開く個展は来訪者を期待せずに、“必要至急の個展”。作品と向かい合う時間と空間を一人占めにする場、キャンセルはあり得ない、会期の三月には只ならぬ状況になっていたが、予想を裏切り多くの来訪者に恵まれた。後日、緊急事態宣言下でも閉めなかった銀座の画廊は三軒だけだった、しかも来廊者は平時の八割もあったと聞く。こんな時だからこその日常を取り戻す、必要不可欠な空間なのだろう。当初危惧していた事など考える間もなく時間が過ぎた。団体展では味わえない、一堂に並べた作品群、それへの熱いメッセージ自分で決めた場所、いつもの正面からの気取った絵だけではない、斜め、横向きの自分、気恥ずかしさ居心地の悪さもたっぷり味わえた。二つの個展からこれからの自分の絵に向かう姿勢も変わるだろう。会期中様々な方からお声を頂戴した「作品が完成しすぎている、もっと未完成で沢山の作品を描くと良い、すると又個展がしたくなるよ」「創造って実験ですよね」筆にたっぷりと絵ノ具がしみ込んだ二週間だった。

2021年3月1日~6日/中和画廊(銀座)

2021年5月24日~29日/千駄木画廊(千駄木)

小西熙

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コロナ下の画廊で自作を見る 会場の“ギャラリーなかむら”は京都の街中、三条通りと高瀬川が交わるすぐ傍にあります。6M×6Mの正方形の空間に150号から100号まで、いずれも横画面の作品8点をゆったりならべることが出来ました。

さてそこで、ならんだ作品を見て作者の私はどうだったのか。そこでなにを見付けなにを反省し、この先どうしようと思ったのかなどなど、そんな一端一片を少し言葉にしてみてと思ってもどうやら無理でいま振り返ってみて並んだ作品に私が徒手空拳の如くしたことは、新作2点のナマモノには早く時間が落ち着きを与えてくれることを祈り、過去10年来の旧作一これ等を私は三日干しとか干物とかと呼んでいるのですが一来廊者の途絶えた合間に精出して修正や描き込みをしました。それは古びた衣装を洗濯をするというのではなく、なにか消えかけのものに必死で点滴を施しているという気分です。笑止千万のごときものでしょう。けれどもそういう自作への行為が時間の重なりの中で次も探る楽しいもののように思えます。

昔、たぶんブリューゲルの時代のものと思いますが階段でバイオリンを弾く骸骨の銅版画を見ました。以来、それは絵画表現がもたらした恐怖と不安の代表作のように私の中に今もあります。その時代や社会・人々の生はその絵を通じて拡がっていきます。私にはとてもそういう絵は描けませんが、作品の中に、時代・社会・人々が個を通じて感じとれるもの、そういった作品にこれからもいろいろ出会ってみたいものと願っています。

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醍醐イサム

絵、パンデミックコロナ禍にて

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2020年3月、銀座に現存する最古のビルの一つ、奥野ビル4階Gallery銀座1丁目にて個展開催。この年、1月より日本に広がり始めた新型コロナは、奇妙な楽観と恐怖が混濁した世情の中で、いける所まで行けば何とかなるだろうという、何処か遠い1930年代の記憶の底のような質感の無い透明な沈殿物のような者たちが息吹を吹き捲り、根拠のない楽観を人工のようにし続けてゆく中、Gallery銀座一丁目は20年を超える活動を閉じた。ふと、記憶が立ち上る。路上に人が無く、眼に見えぬ何かが世の中を覆い尽くし、風景は明るく、野山も美しく、人さえ時として美しく、けれども全ては放射能に覆われている、2011年3月、あの平明で何事も変わりなく人間が消えてゆく、あの記憶。5月、表参道ストークスの個展は事前中止となった。7月、新宿の個展「パンデミックコロ」会期直前中止。12月、K'Sギャラリーの同タイトル個展に向かい行く。2021年4月、銀座画廊は新型コロナ禍の中、敢えて1ヵ月の個展を企画し、途中、休廊要請に応じつつも会期を延長し続け、結果8月上旬までの長期開催を敢行してゆく。5月、表参道ストークスも又、個展を敢行。絵は、絵描きは、画廊は、何故に自らを求め続けて行くのか。この人間集合体の所業人災とも云うべきコロナ禍の中、向き合うべきものは何処か。12月K'SギャラリーDM文章を再び記し置く。「7月、予定した個展「パンデミックコロナ」は、開催ビルにクラスター発生、列島に拡散、会期直前中止となった。12月、再度個展へと向かう。私は常に向かい行く他は無いのだ。私と絵を問う「自選展を目指した7月のそれは、今、新作を以て行うこととした。その為の、自らの道標として、7月文章を、このDMに掲げ記し置く。「コロナバンデミックを機に、これまでの絵を自選してならべることとした。ウィルスが生物に寄生するが如く、絵もまた人間に宿りゆく。あるいは、人間は絵に宿りつつ生きゆく。宿りつつも生きゆかねばならぬ。2020年、微細な状況が惑星全体に拡大し、一見同様の書きの如く、人間徒党が個人を侵食せんと動きを加速してゆく。集団自体が一見ウィルスの如く人間を侵食してゆくのだ。然しながら、共生にあらざる侵食を寄生寄宿とは呼ばぬことだ。それは意図による執行に他ならぬ。絵描きが絵と共に生きることは、その対極に位置する。絵は私ゆえに私となる。私は私ゆえに絵となる。「作家在廊日未定です。ご来廊ご無理なく、くれぐれもご無事にお過ごしありますよう」

求め続ける方々、御身らに幸いのありますよう。 2021.8.D記

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