追悼

サヨナラ 森山 誠さん

石田貞雄

2017 年の夏が森山さんとの最後の電話になった。この20 余年の毎夏、森山さんから、出品作品の仕上がり具合と上京日程を知らせる習わしの電話がこの夏も届いた。

その最後の電話は、作品は精いっぱいで、女房と二人で荷造りし既に発送した。体調は不良で、と元気のない、うつけた短い会話のまゝ終えた。私は敢えて話の詮索をさけた。

第81 回自由美術展のさなか、10 月9日に森山誠さんは亡くなった。80 才だった。

森山さんと私との個人的なお付き合いが、何時の頃から始まったのか(1980 年代の後半か)私の記憶は定かではない。たゞ、初対面の折に「おどを描かれた石田さんですね。北海道の森山です、以後よろしく」と突然の挨拶を受けた。作品「おど」は1969 年の自由美術展と1971 年の現代の幻想絵画展へと2度出品した。知り合う以前に森山さんは既に「おど」をみてくれていたのだ。私は無性に嬉しかった。私も「よろしく」と挨拶し審査会場のその場で別れた。森山誠ご本人と初めてお会いした一瞬間の出会いだった。市役所勤めだった森山さんが審査に上京する様になったのは1980 年代後半から1990年代の頃と思う。私の7年後、1974 年に森山さんは会員になった。その間の20 年間程は、たゞ毎年の作品世界を通してのみ知るという言葉の介在しない関係だった。その頃の森山作品は、キューブ、フォーブ、シュールの混交する技法で画面空間の拡散と凝縮とを真摯に描き続けていた。1991 年の作品<風景−触><アルバム>の頃から画面は平面を取り込みながら、厚塗りとつゆ描きの技法を駆使した求心的な空間画面へと向かった。以後この空間が森山作品の基盤として定着するのだ。言葉の介在しない20 年間は、お互いの作品を時間をかけて見届けていたのかも知れない。以後、個人的な付き合いの始まった折の酒の席の会話も常に淡々としたものだった。絵の話といえば、画面の形態と空間の関係事くらいだった。言葉ではなく眼力が互いの世界を見届けていた20 年間の、成果なのだと思う。寡黙で含羞の人、森山さんは常に耳傾ける人で自己主張の少ない人だった。作品を描いている折にも、愛妻の洋子さんに度々意見を求めていたそうだ。洋子さんは、「二人で描いた様なもので、どの作品の細部までも記憶している」と私に話してくれた事がある。この内蔵する強靱なしなやかさこそが森山誠の画面に対峙する執念なのだ。

森山さんの自由美術との関わりは、地元の小谷博貞、菊地又男、渡辺伊八郎ら先輩達に触発されての初出品、初入選で1971 年だった。私が初めて簾舞のアトリエに伺った折に、小谷博貞さんの演出した自由美術20 周年の記録映画「若き美術家たち」をみせられた。森山さんは作品だけでなく精神的にも正に、当時の自由美術的人間だった。その後森山さんは、佐々木美枝子、佐藤泰子、中野智、伊藤零児さん達の仲間と、広い北海道での自由美術の基盤を固めていった。1980 年代の巡回展の頃だ。佐藤泰子さんから後日その頃は森山さんとのケンカの時代でしたとの話を聞かされた。巡回展はさぞ大変だったと思う。しかしその精神的な核は現在にも受け継がれている。深川市アートホール東洲館の森山誠回顧展の会場でそれを実感した。 2018 年11 月9日、洋子さん京都の小西さん私は札幌で落合い洋子さんの車で、途中地元の永野さんも加わり、四人揃って墓前に花を手向け森山さんの墓に合掌した。広々とした丘陵の林の静謐な空間に森山さんの墓は造られていた。やっと墓参りが叶った。

夕暮れて札幌駅の近くで洋子さんに夕飯をご馳走になり、旭川行きの急行に小西さんと私は乗り込んだ。深川駅には7時頃着いた。 東洲館の館長渡辺さんが予約して下さっていた深川市から車で15 分程の秩父別町の宿に送って下さった。暖房のきいた相部屋でまもなく眠りに入った。翌朝鐘の音で私は目覚めた。小西さんの眠りは続いていた。朝食の時鐘の音の事を聞くと知らなかったとのこと。

10 日の朝食後再び渡辺館長が車で来て下さった。3人で50 点程の森山作品をゆっくり堪能した。私には思い出の多い作品たちだ。

11 日の昼頃には、仲間はほゞ揃った様だ。何せ北海道は広い。東京と違って一番近い札幌からでも急行で2時間程だ。この会の世話役、さとうえみこさんは多分、深川市まで半日くらいかゝるかと思う。皆さんもきっと同様だと思う。会場内に長机をならべ全員で会食した。その席で、<森山誠と仲間たち>展を札幌市民ギャラリーで開催しますと永野さんから告げられた。その折は永野さんが世話役の様だ。小西さんから届けられた深川の会場での集合写真をみると、総勢18 名だった。今年さとうさんから届けられた文面と写真からは市民ギャラリーの方も成功に終った様だ。東洲館で実感した、精神的な核は、さとう、永野さん達仲間に美事に継承されている。

2008 年に森山さんは画集を上梓した。当時の求心的な空間追求の安定した作品が集成されていた。巻頭の吉田豪介さんの文章のロラン・バルトを引いた終章は、森山作品の展開を暗示して美事だった。2010 年私は<豪快な野見山作品の遠心力をみて>と電話を入れた。ブリジストン美術館の野見山暁治展を二人して唸りつゝみた。唸り酒だった。

札幌時計台ギャラリーの閉廊は2015 年だったか、森山さんの最後の個展の折、全作品のなか1点の作品を小西さんと私は指した、その作品が遺作として自由展に展示された<風景の記憶>だ。個展会場の折の画面は大きく変容していた。その変容を今は問うまい。

2016 年秋、京都の小西さん宅のび庵に森山夫妻と私はお世話になり京都の小路や寺を小西さんの案内で巡った。今にして思えば不思議だが、空港に向かうバス内の夫妻を小西さんと私が、京都駅で見送った時の、森山誠さんの笑顔が、永遠の別れになってしまった。

森山さんと私との事を時代を追いながら思いだすまゝを、おぼろになった記憶をたよりにこの文章を書き終えた。最後に森山さんにも私にも嬉しい話で終ろう。森山誠作品の総てが、深川市のアートホール東洲館に収蔵された事だ。現今では正に夢の様な事だと思う。

森山さん、あなたの作品の力なのだ。何時の日か再び東洲館で作品が展示される折にはあの長い鐘の響き渡る秩父別町の宿に、私は小西さんと共に泊りに行きたい。東京生まれの森山さんは丸ごと北海道の人間になった。

サヨナラ、森山誠さん。

 

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