自由美術

批判的リアリズムの潮流

光山 茂

2003 年に開催された井上長三郎展(神奈川県立近代美術館)のカタログにおける酒井忠康氏の論考で井上作風の根底を「自分自身の目の届く社会のかたちがいかなるものか、という認識の上に立って、あらゆる外部の状況が、自己の内部でどのような画像を結ぶのかを凝視しつづけているところが、実は井上長三郎の作品の傾向を示す特徴なのだ」と述べている。この作画態度は自由美術に結集した作家全般に通じるリアリズムと言えよう。現実社会に真っ向から立ち向かいそれに対して批判的発想をもとに己の美的感覚を研ぎすましてきた先駆者として井上長三郎(以下すべて敬称を略す)鶴岡政男、麻生三郎、藤林叡三、西 八郎、曹 良奎、川上茂昭、有村真鐵など枚挙にいとまがない。現存作家の佐々木正芳もこの範疇にはいる作家であるが先の機関誌で本人が述べているので省く。

反骨精神に裏打ちされたリアリズム 井上長三郎、生きた証しの記録、有村真鐵

井上長三郎は、戦前から当時の権力、軍部に追随しない反骨精神を貫いたが1960 年代から風刺画的な作風に転じ彼のリアリズムが確立された。人間をデフォルメし、そのなかに様々な状況を介在させアイロニーと哄笑に満ちた豊かな作風を作りあげた。

<モニューマン(砂川)> '60 年にみられる、反基地闘争でもがき苦しむ人を象徴的に表現し<ヴェトナム> '65 年に至るとアメリカの侵略によって犠牲になった人民の悲しみを単純化した線描のなかでクールに描き出した。

最晩年になっても権威への挑戦としての、<文化勲章> '75 ~ '80 年、<黒い閣僚> '93 年など社会現実と関係ない世界には足を踏み入れなかった徹底した批判的リアリストであった。

有村真鐵は井上と共通した姿勢、それは一貫して現実社会と切り結ぶところで制作を続けたことである。30 歳のころ「私は庶民に語りかけるような絵が描きたい」というベン・シャーンの言葉に感動して具象に転じたという。以後ぶれる事なく、社会現実の不安や矛盾が画面全体に及ぶ作品の系譜とヒロシマ、ナガサキの原爆を引きずる作品へと発展していっている。<3人> '65 年は年老いくたびれ果てた労働者がダイレクトに表現されている。しかし彼の表現力の真価が発揮されるのは '70 年代以後である。<記録Ⅱ> '69 年<賽はふられた> '70 年に至り太平洋戦争の風化への警鐘を声高でなく静かに語りかける作風に転じる。確かな描写力に裏打ちされて必要最小限の造形要素だけで纏めあげる能力に支えられて80 年代では高校生をモチーフとして時代の閉塞感を捕えていた。

歪んだ自画像 西 八郎と藤林叡三

西、藤林は自由美術の作家群のなかで抜群の描写力を備えて自己確立を図った。共通するところは幻想絵画の流れを経て現実の日常を人間の生きる重みに帰結したことであろう。「彼の表現世界には、シュールレアリズムや幻想絵画あるいは象徴主義といった西欧的な様式概念に見合うものを外見上は示していながら実質的には東洋絵画の造形性を強く打ち出している。」(林紀一郎、遺作展論評)西はいつでもどの作品においても自己を取り巻く不条理や飢餓と闘っている。<森の人> '78 年や一連の飛べない鳥に託して自画像を描いた。

藤林はシュールレアリズムの常套手段であるデペーズマン、デフォルマション、オートマテズムなどを駆使しているが自ら「私はシュールレアリストなんかではない」(絵画箱からの手紙)と言い切っている。彼が西と大きく異なる点はパースペクテブな空間意識を晩年まですてなかったことである。< MELANCHOLIA >Ⅰ、Ⅱ、Ⅲでみせた日常と非日常の攻めぎあう世界を一般的に言う具象的な表現法に帰結して描ききっていることがその証拠である。電車のなかの情景は正に都会に住む孤独を深々と表現している。

変幻自在の天才鶴岡政男、美と醜のなかでの戦い川上茂昭

鶴岡政男は井上に似た軌跡を辿るが最終的に着地点が異なっていた。<夜の群像> '49 年は現実の矛盾や混沌を描きたかったといい<重い手> '49 年では外界の圧力に耐えている人間像をモニュメンタルに表現したとそれぞれの作品について自ら語っている。これらは<ゲルニカ>の表現様式を巧みに己の美意識のなかに取り込んでいるといえる。

<人間気化> '53 年以後、彼の作風は変幻自在、一見軽やかに様々に変化を遂げる。現実社会を彼の内面で消化してのち象徴的なメタファとして自在に構成するようになる。'60 年代になると人間の生きざまのなかにある醜悪さを風刺的に笑いとばしはじめるが<ライフルマン>'68 年では、金嬉老の温泉立て籠もり事件をもとに現実への弾劾を試みている。これは彼が晩年シンプルで平面的な軽やかな作風に転じてもリアリストの座標軸を外すことはなかったことの証明である。

川上茂昭の画業は鶴岡にもっともその軌跡が近い。彼は鶴岡と同様、一つの様式にとどまることを良しとしなかった。私宅の玄関に彼の<大統領> '82 年が掲げられている。硬質なマチエールで無機的な顔が絶えず私を戒めている。<エスカレーター> '68 年は彼が手掛けて来た無機的な人間像から一転、脳みそを掻き毟るような衝撃的な作品に変貌した。ベトナム戦争におけるアメリカの非人道に対する怒りが迫ってくる作品である。

< Dr. Jekyll > '86 年は彼のもつ資質が最も顕著な作品といえる。二重人格のジキルとハイドを借りて人種差別、反戦平和を語りかける。<門> '89 年、<樹、鳥> '91 年などから人間は画面から消え去るが文明批判はますます強まっている。彼の仕事は確かに大向を唸らせ、世俗的には受け入れられないかも知れない。しかし自由美術の戦後史のなかで欠かすことのできない作家である。

自由美術のこれら先駆者は戦後美術史に確固たる地歩を築いた。いまこの団体のなかで批判的リアリズムは風前の灯火である。感覚的、情緒的な世界に逃げ込みつつある自由美術の現状を直視したい。

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