空中散歩館を訪ねて

手島邦夫

 

4 月27 日午前9 時半、東京駅ホームで西村さんと待合わせ、東海道線で湯河原駅へ。途中の車窓から間近に見える海が美しい。駅からバスに乗り終点鍛冶屋で下車、静かな畑の道を5分程歩くと右側に見えてくる大きな倉庫のような建物が空中散歩館である。入口の扉を開くと高い天井、白い壁の開放的で広い空間が広がる。右側の壁にはオレンジ色が美しい200 号の「讃歌」(1992)、その隣に黒と青の「旅立つ青」150 号(1995)。正面には節子夫人の120 号~60 号の淡いグレーの作品が数点。大小の作品のかかる壁面の前の床には、次女の恵さんの立体作品などが直に置かれている。部屋の角にはグランドピアノ。館の左奥は作品の収蔵庫になっており、その1 階・2 階には大きな作品がぎっしりと詰っている。

昨年開かれた第70 回日本アンデパンダン展の企画展示「春を待ち、闘った、激動の60 年代美術」に出品された大成さんの「乳房」は、膝を折って憩う雌牛の姿を画面一ぱいに描き、その強く的確なリアリズムの表現は会場の中で一きわ異彩を放っていた。恵さんによるとこのような描き方の時代はとても短い一時期だったとのことである。

恵さん姉妹お二人から昔の話をいろいろとうかがった。大成さんは22 歳で荻窪にアトリエを建て、結婚・相次ぐ子供さんの誕生と続く中、昼の間は生活の為の仕事に追われ、制作はいつも夜中であったこと、夫婦で開いた絵画教室は評判で生徒の親御さん達から多くの支援・援助があったこと、とにかくいつでもどこでも多くのスケッチを欠かさなかったこと等。また荻窪から湯河原に引越す際、古い作品をかなり処分してしまったそうである。

お二人が収蔵庫の奥から苦労して取り出して見せてくれたのが掲載写真の作品である。恵さんがタオルでふくと、黒い画面がはっきりと現われた。手製のキャンバスと木枠による60 号P型。裏に出品票の貼付はないが、チョークでの4 桁の数字と○印が認められるので自由美術に出品をはじめて間もない頃の作品であろう。古い出品目録によると大成さんの初出品は1952 年16 回展の「椅子」で、17 回展「作品」18 回展「立つ人」19 回展「出来ごと」と続いている。この作品は19 回展出品の「出来ごと」ではないかと思われる。当時の作者の置かれた状況の痛みが具体的・切実に笑いさえも交えて表現されている。最近このような作品を見ることはなくなってしまったとの感慨にひたり、しばらくの間見入ってしまった。その後「船」を経て「崖の根」「這う根」「根塊」「落ちる木」「落ちる根」「土塊」「風景」など従来あまり絵にされてこなかったものを主題とした連作へと続いている。

1970 年代以降新宿の紀伊国屋画廊、吉祥寺の画廊駱駝館での個展で作品は具象的なものから次第に色彩鮮かな抽象作品へと変化して、その後は映像・音楽・舞踏との交流を深め、パフォーマンスを多く手がけるようになる。私も淡路町画廊の個展の暗くなった会場で、大成さんの手に持つ鮮かな色彩光線に照らされた記憶がある。大成さんの初期から晩年までの大きな軌跡を、例えば葉山の神奈川県立近代美術館のような広い会場で通して見てみたいものだと思う。

西村さんが古い「アトリエ」のコピーを持参してくれた。その中に心に残る一節があった。少し長くなるが引用させていただく。

初出品の頃 大成瓢吉「当時食う為の同じ仕事をやっている仲間から自由美術のこと等も知り、又他の人にも奨められ公募展には初めて出した。1952 年16 回自由展で初入選、もう25歳、二児の父親となっていた。身近かな人達の絵を識って見ると、それらの作品は自分達の立っている地盤からの“仕事”であることを感じた。私は同世代のように仲間で飲み、語り、ひたすら勉強を続けた青春ではなかった。生活は一刻も待ってくれず歯ぎしりの連続であった。遅ればせではあったが自分の経て来たこの生活を土台として、ギリギリの中での手製のキャンバスに描きえのぐが厚くなると裏からお湯をかけて剝しそれを繰り返しながら、黙々とやる他はなかったのである。」(1969 年2 月アトリエ№ 504)

空中散歩館 
神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋813-7 ☎0465-63-5283
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