赤荻賢司氏と私 −アルモ工芸社を通して−

小野田勝謙

 

彫刻家・赤荻賢司氏が58 歳の若さで亡くなってから今年で28 年になる。30 代の時、赤荻さんの経営するアルモ工芸社にお世話になっていた私も63 歳。今振り返ると改めて赤荻さんの存在の大きさを実感する。

アルモ工芸社には武蔵美や和光大出身者が数名勤めていて、自由美術立体部会員も出入りしていた。私も彫刻を続ける為に、理解ある赤荻さんの元で働く事になったのだが、技術も知識も無い私にアルモ工芸社の人達は丁寧に仕事を教えてくれた。それが今の私の仕事を支えているのだから本当に有難い。

又、3 時のお茶の時間には皆で仕事や芸術などの会話を楽しんだ。そんな中、赤荻さんが彫刻家・木内克さんの弟子になりたかった事を聞いた時は、本当に驚いた。学生時代から木内克の彫刻に感動し、敬愛していた私にとって、こんなにも身近に、木内克のアトリエで制作を手伝った人がいるという事が嬉しく、大いに刺激になった。(実際、アルモ工芸社の庭には木内克の巨大レリーフ「コロナ」の型があった。それの小さいサイズの作品が現日本画廊の外壁に設置されている。)

年代は違えど、赤荻さんも私も具象彫刻から金属の抽象彫刻に移行した。赤荻さんは木内克の作品に魅了され武蔵美に入ってからずっと裸婦像を主に制作していたが、その後「自然界における右と左」という本を読み、一気に抽象にきり変わる。私の場合は、最初は金属彫刻を制作したかったが、大学で木内克作品に感銘を受け人体のおもしろさに惹き込まれてゆく。赤荻さんも私も武蔵美の学生時代から具象彫刻を自由美術に出品し始め、やがて金属彫刻に変換した。この共通点を考えると改めて赤荻さんに親近感を覚えるし、又、改めて赤荻さんの制作してきた作品の数々に敬意を払いたい。赤荻さんの金属作品は、右と左の特質・性質が絡みあって空間構成されていて独自のテーマを深く追求したものであり、他に類を見ない。赤荻さんの晩年には私も金属彫刻を手がけており、制作のお手伝いをさせて頂いた。赤荻さんの彫刻は非常に数学的で、緻密・繊細でもあり、それでいてできあがるとスケールの大きいものになる。今、赤荻さんが生きていらしたらどんな作品ができていただろう。そして私の作品をどう評してくれただろう。

現在も赤荻賢司作品は「内と外」(帝国ホテル)、「ストライプアーチ」(美ケ原高原美術館)、「歴層」(目黒・現代彫刻美術館)等、数々の場所で輝きを放っている。これからも時々赤荻作品に会いに、赤荻さんに会いに行ってみよう。

 赤荻賢司 略歴

1932 茨城県結城市に生まれる

1955 自由美術家協会展に出品、以後毎年

1957 武蔵野美術学校彫刻科卒業

1960 自由美術家協会会員となる

1975 第11 回現代日本美術展出品

1977 個展(ギャラリーオカベ)「右と左の空間」

1979 第1 回ヘンリー・ムーア大賞展佳作賞受賞

1979 自由美術賞受賞

1980 第14 回現代美術選抜展出品

1982 第14 回日本国際美術展出品

1982 第2 回個展(ギャラリーオカベ)「右と左の空間」

   野外彫刻とテキスタイル展出品(玉川高島屋)

1983 第3 回ヘンリー・ムーア大賞展 美ヶ原美術館賞受賞

1986 東京野外現代彫刻展招待出品

1987 個展(銀座兜屋、名古屋兜屋)

1989 現代茨城の美術展(茨城県近代美術館開館記念展)

1990 永眠 享年58 歳

1991 10 月 遺作展(茨城県民ギャラリー)

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