東宮不二夫先生のこと

手島 まき子

私が自分の表現としての絵を描き始めたきっかけは、小学4年時の担任の先生である東宮不二夫先生の存在が一番大きいだろう。

東宮先生は、まがったことには火を噴く勢いで本気で怒る。我々の頭上にもしょっちゅう大目玉が炸裂したが、それは恐怖で萎縮するというより、はっとして背筋が伸びるような不思議な怒り方で、みんなそんな先生が大好きだった。授業の合間に聞かせてくれる雑談もとても面白かった。先生の少年時代の話、名作文学のパロディなど。……時々は先生の経験した恐ろしい戦争の話も聞かせてくれた。

先生は、のろまでぼんやりで脱走癖まであるどうしようもない子供だった私を、「いい子だ」と言ってくれ、夏休みの宿題の絵日記を褒めてくれた。(もっとも当時先生が褒めてくれたのは作文の方であり、絵については初めて触れた少女漫画にもろにかぶれてお目目パッチリお人形みたいな人間をかいていたため、褒められた記憶は全く無い。)

いつの頃からか、先生から案内状をいただいて旧煥乎堂ギャラリーの自由美術展を見に行くようになり、そこに並んだ絵たちに魅せられたのだった。宙に浮いた石、こわれた時計、からっぽの軍服、うつむく人、荒涼とした風景……

旧煥乎堂は全体に静かで涼しげなとても素敵な建物で、そん建物の中央にある曲線の飾りのついたらせん階段を登り切った最上階にギャラリーはあったから、これは絵との出合いとしては舞台効果まで完璧だったのだ。(大好きだった旧煥乎堂は取り壊されて今はもう無い。新煥乎堂にもギャラリーはあったが売り場と一続きであり、店内のBGM がそのまま聞こえて、異世界感は大分薄れてしまった。そして今はそのギヤラリーさえ無くなった。)

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手島まき子

東宮先生を思い出すときに、いつも一緒に思い出す人がいる。K君という同級生である。自由美術の先輩について書く、というお題からははずれてしまうかもしれないが、どこかで書き残しておきたいので、この場をお借りして書くこととする。

K君は、少年院を出入りし、喧嘩がめっぽう強く、札付きの不良少年だったが、じゃがいもみたいな顔が結構愛嬌ある少年だった。東宮先生は彼が描いた絵を見て絶賛したのだった。K君の絵は、いまでも記憶に残っているが、本当に何にもかぶれていない、影響を受けていない、見たこともないような絵だった。

たぶん父親の仕事場であろう工場の絵で、父親の姿もラインの機械も濃い鉛筆でごしごし描かれた不思議な曲線でおおわれていた。東宮先生は屋上に通じる階段の上に彼のアトリエを作り、思う存分絵を描かせたのだった。K君はそこで背を丸めて机にかじりつき、一心不乱に絵を描いた。私は先生にそんなにほめてもらえて、アトリエまでもらえたK君がうらやましくて少しやきもちを焼いたが、とてもかなわないな、とも思っていた。天才ってこういうものかな、と。

・・・それから月日がたち、高校生になったある日、私はK君に再会した。司修の自伝的小説「汽車喰われ」で主人公が友人に再会し、リヤカーを押してゴロタ道を下った同じ道である。

K君は、白いスーツにテカテカの白い革靴を履いた、いわゆる「やくざの制服」で身を固めていた。ああやはりその道をたどってしまったかと思った。しかし、じゃがいもみたいな愛嬌のある顔は変わらず、にっこり話しかけてくれたK君と、二言三言話して、その場は別れた。

あの時どうして聞かなかったのか。

東宮先生に会いたくない?煥乎堂に行けば会えるよ、今も絵を描いている?あの時の絵がまた見たいよ……

私の言葉がK君の運命を変える力があったとは思わないが、東宮先生に誘われて自由美術群馬展に参加するK君、そういう未来も見てみたかったような気がする。

群馬の冬はとても乾燥する。そのせいで空気は澄み切り、遠くの山塊も手に取るように近くに見え、その異様な迫力は日常の風景を異世界に変える。山の向こうに遠い記憶の帰るところがあるような……。群馬に「シュール系」の作家が多いのはこうした風土に理由があるのかもしれない。

東宮先生は今は山の向こうへ行ってしまった。K君とはあれきり会うことは無い。私はこの先も脱走したり迷走したりしながら、いつか山の向こうに行く日まで絵を描き続けるのだろうと思う。

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