その後の自由美術

福 田 篤

歴史は思わぬ方向に動くが、時の流れを振り返ると、ある変化は必然的な理由や原因によって合理的な反映をし結果に至るのだと理解できる。自由美術も創立年から80 年が経過する。大きな時代の変化や政治、経済状況の変化の中で時代を反映する作品を展示し続けて来た団体であった、そして自由美術自身が変化し続けた。又大きな環境の変化を受け入れざるを得ない局面もあったろう。

さて自由美術は1937 年の創立以来毎年入会者がある。数に多少はあるが毎年新しい仲間、会にとって新しい作品を受け入れてきた。そして自由美術の特徴として自然減を除いても退会者は少なくない。理由はというと芸術上の理由や主義主張によるものが多かったのではなかったか。従って退会者と入会者の芸術的主張の違う分だけ会は変化してきた。それが最も明瞭に表われていたのは新人画会のメンバー及びその仲間達の入会と創立会員の多数がモダンアートの結成に動いた時であろう。

しかし今我々自由美術の会員は同じ会に居続けているために自由美術の芸術的志向は無限循環構造であるかの様な錯覚の中にいる。我々は自由のフィルターの向こうに時代の変化を見、文明の質と進歩による価値観の変化に対しても同様に見た。我々の恒星が星雲の中で超高速で回転し位置が変わってゆく時、中の位置関係を越えて知覚する方法を持ち得ないのと同様であろう。

1950 年から主体美術分裂迄の約15 年間が自由の名に相応しい黄金期だったといえる。戦後の戦争批判、軍や政府批判と自己批判、戦争という狂気の時代を経て人間自身を問い直すことを制作を通して行ったのが新人画会のメンバーや小山田二郎と云った人達である。そしてこれは当時の日本全体、或いは多くの文化人の心情と共有するものであった。加えてこの世代の人々は戦争体験者であったというより戦争という歴史の高密度な舞台の登場人物であった。靉光の様に大陸で命を落とす者、麻生三郎、大野五郎の様に生還できた者と正に生と死の分水嶺を歩いてきたのである。その道は母国に唆そそのかされた無差別殺りくの修羅場であり、300 万人の血が流されたのだ。そこをくぐり抜けた自由美術の画家達はそれを避けて制作することができない、表現者の集団であった。

日本の極限状態から生まれたヒューマニズム表現主義といったものは自由美術に於いて開花し沈潜した。そしてそれは形状記憶となり、次の時代の制作を生み出してゆくことになるのである。

1965 年からの自由美術を検証すると、敗戦後20 年が経過し日本の社会情勢が変わり始めた頃のこと、大野修氏のガソリンスタンドの絵が注目を浴びた。それはアメリカ文化が街に定着してきた一つの風景となったからかも知れない。当時既に蛍光カラーの絵具が使われ始めるなど、パリ発の美術とは異なった概念のアートが美術のみならず、広く浸透し始め、未踏の山に分け入ってみようとする試みで自由美術を退会する会員が出始めたのもこの頃からだろう。

戦後のアメリカの下請工の列島化は日本に何をもたらしたのか。ヨーロッパでは産業革命により知識技能を有する労働者と専門的技術者をたくさん必要とする様になり、長い間特権階級が独占してきた知識と技術が社会階層に関係なく拡がった。そのことにより文化、芸術の発展の可能性と庶民化が始まった。これと良く似た状況が日本にももたらされた。

この頃自由美術は上原二郎、西八郎、一木平蔵が中堅リーダーとして、それぞれ個性を活かした特徴的な力量を示していた。それぞれ作品だけでなく、振舞いも自己主張と自信に満ちていた。人柄は三人三様で重なる部分が無い程異なっていた。

美術の発生はどの民族でも固有の形式をもって存在していたる思うが、エジプト、ギリシア、ローマ、パリと中心を移しながら発展してきた。美術は文明の発達を背景に高度で巨大な美の集積ができ、地球の文化の地磁気の中心は長らくパリにあったが、第二次大戦を境としてニューヨークに移動した。ニューヨークのスポンサーによるものか理解できないが、ニューヨークのアートはパリ時代とは異なり歴史的背景を拒否している。

ヨーロッパの芸術と異なり直接的に大衆を意識し、美術ジャーナリズム、マスコミニケーションに対して評価を得ようとしていた。これは有史以来の美術の成り立ちとは全く異なるものであり、芸術性に新基準が生み出されたといえる。

このアメリカ美術が世界を駆け巡る頃、自由美術は二度目の分裂と大量退会を経験した。退会者の中には新しく起きてくる美術、新素材による現代美術に挑戦する人もいた。

退会して広い視野で新分野を試みた創立時からの人を挙げると、新造形に挑戦しオリジナルな作風で完成度を高めたのはオノザト トシノブ、前田常作、中本達也、小野木学らがいる。

戦後の草創期といえる自由美術の作家達の活動は時代とぴったりと合った運動であり、多くの一般の人達の心情を代弁し、又美術ジャーナリズムの目を強くひきつけ否定させない歴史的妥当性があったと思う。又「戦争反対」が切り札として使われる様になるのはその次の世代になる。戦後は「食べられる様に」の方が切り札となり得たろう。

自由美術の戦後草創期の作家に共通しているのは戦争に落ち込んでゆく過程と無差別殺りくという強烈な体験が作品の中にメッセージとして強く訴えられている。そうした共通性をもっていながら、造形的な共通性はなく極めて個性的なのである。それ以降の自由美術に於いては重なり合う部分を持つ例は珍しくないのである。特に新人画会のメンバーは接触した時間が長く生活の場も重なり合っていた(池袋モンパルナス)のに、制作に於ける個の独立性が極めて高いのは特筆すべきだろう。

戦後の国際社会の秩序形成の動きは先ず東欧と東アジアに現れた。東西対立の先端的接点となった朝鮮戦争とその後の米軍の増強により、日本は自助努力外の利益に見舞われた。そうした経済と社会状況の中で自由美術は戦後世代のメッセージの記憶通り、一直線に進んでいたのだろう。上原、西、一木時代の次になると「自由美術」の意味するものに悩まなければならない時代がやって来た。

自由美術と「自由」を冠した時、日本やドイツでは人々の自由は危機に瀕していたときであった。自由は貴重であり制作上の自由を守ることも勇気と危険を伴った頃であった。しかし自由美術の次の次の時代になるとニューヨークからの余りにも自由すぎる美術に驚いたりとまどったり感心したりの時代、日本の美術団体は自由すぎるアートに対して一定の距離を置かざるを得なかった。団体展はパリで完成された西欧絵画に絶対的価値を置いていた。従ってアメリカ美術に感心はしてもやはり軽薄すぎると感じた者が多かったのだろう。井上長三郎氏は合理性はどこかに置き忘れて全くお留守なんだ、それでいてモダンアートがはやるんだから滑稽だ、と批判している。植村鷹千代氏は自由美術の第一回展評として「前衛絵画運動として成功している今後の運動に力を入れる……」とみずゑに書いている。自由美術は創立時前衛美術で始まり、戦後は時代を代表する表現集団であったのに、すでにモダン批判をする位置にスライドしたと読み取ることができるのではないだろうか。

1965 年を過ぎる頃から日本は経済発展も始めるとアメリカ資本の流入と同時にニューヨークからはなばなしくやって来た美術ジャーナリズム界は、数倍の資本を投入して現代美術をつまりヨーロッパからの理屈っぽい輸入芸術と違い明るく大衆に呼びかけるアートであった。ポップアート、キネティックアート、コンセプチュアルアートと次々とめまぐるしく輸入され若者はこぞって参加していった。それはファッションやスターを売り出す手法で大衆を巻き込んでいった。その頃自由美術の作家達はニューヨークの噂を気にしつつもヨーロッパの伝統社会が生み出した造形、シュールリアリズム、ダダイズム、表現主義、抽象主義等の精神と手法を思い思いに焼き直し自己の表現を確立していた様に思う。自由美術には未だ戦争直後の造形に対する必然といったものが形状記憶として会員の中に生き続けていたのだろう。 そうした主張がある程度アピールできたのはシュールの部屋、幻想の部屋だった。シュールレアリズムから発した手法を用いた幻想絵画の気鋭が集まっていた。その当時の自由美術らしさの一本の柱だった。西八郎、藤林叡三、伊藤朝彦、白水興承、高木勲、上野省作、群馬の東宮、有村、仙台の佐々木らが充実した作品を出品していた。

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藤 林 叡 三  「老闘士」1974 年 F100

アンドレブルドンはシュールレアリズム宣言の中でシュールレアリズムはこれ迄閑却されてきたある種の連想形式の高度な現実性への信頼に基礎をおく、それ以外のあらゆる精神的機能を決定的に打破しそれらに代わって人生の重要な問題の解決につとめる……と宣言し理性に於ける統御をとりのぞき審美的、道徳的な配慮の埒外で行われる心の純粋なオートマチックな(自動的)現象がシュールレアリズムなのだ。概念や観念から逃れた純粋な現象だと言っている。それに加えフロイトの精神分析と、詩、言語による超現実という日常性から飛躍、脱却し無意識の世界へと導く幻想という非理性による秩序の世界を追求するのがブルトンの主張だと思うが自由美術に於いても西八郎の自由美術出品作は正に非理性による秩序の世界を描いていた。そしてヨーロッパのシュールリアリズムの焼き直しでなくユニークな世界観に満ちていた。藤林叡三氏は徹底した表現技法で文明や現代文化の表層を流れる問題性を鋭く捉え、又ベトナム戦争を題材とし大国の巨大な力が土地に根ざした生活をしている農民、子供、老人達の生活を踏みにじってゆく、その時都会では豊かさを満喫する、そうした日常を単純な告発で終わらせない作者の強い意志が表われ自由美術の本展会場ではひときわ目をひいた。又、藤林氏の最後の出品作、ヨーロッパのホテルの一室を描いた作品だが唯室内でなく「死」を描き、「空」を描く氏の鋭い感性はその後の終結をはっきりと描いて見せた。自由美術が誇れる幻想画家でありレアリズム画家というべきだろう。

ダダイズム、未来派、シュールレアイジムなどは政治批判や文明批判に傾いた。その影響か大正から昭和初期には文学、演劇、美術の分野で政治運動との係わりが始まった。戦後の芸術家による政治的係わりは戦争責任問題であったり平和運動であったが大戦直後の敗残兵としての怒りと死んでいった親愛の人達に対するざん悔と鎮魂の気持がそうさせた面もあった、これは当時の国民的心情であった。

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白 水 興 承 「 万人坑」 120 号

自由美術のメンバーの中にはそうした思いをもって制作を続けた人は少なくなかったろう。しかし、そうした人達の制作も経済が復興し明るいアメリカ文化が拡がるにつれ表現方法、内容が除々に見やすい絵画へと変わり時代を反映する作品へと移っていった。そのことにより個の表現としての実感と現実性を獲得することができたのだと思う。しかしこうした時代の流れの中で頑固にドクロのみを描き続けた人に白水興承氏がいる。白水氏は平素温和な自由主義者であった。しかし殆どモノクロでドクロしか描かない、ということから奇異な作家と云えるだろう。幻想派の特徴は描く題材や表現方法が現実を越えられる自由を獲得しているが故に幻想なのだ。しかし白水氏は画面上の造形的自由を捨て自ら表現的制約を課し続けた。他の幻想画家とは異なるのである。

自由美術だけに限らないのだろうが幻想の人達は表現技法に於いて独特の方法論と腕前をもち、それを武器として魅せる作品を描く、つまりそれ等は作品の重要な成立要素である。

白水氏の「ドクロと無彩色」の表現と技法の絞り込みは直接の叫びを間接的叫びと表現するフロッタージュによる技法のごとき狙いを感じてしまう。そこ迄自分を縛り続けたのは何だったのか、氏は絵の中で答えていたのだろう。

絵を描くことは個の表現として個を逆に固定化する、しかし個が生き続けていることにより空間、時間は継続している、次の頁、次の頁へと移ることで時間の継続が成り立つ、ひとつの頁に固定化し引き延ばしているのではない。我々が実存を実感し得るのは時の頁の連続による意識化なのである。白水氏の強固なこだわりは「変化」や「自由に」という誘惑にどう対したのだろうか、何かが乖離していたのが白水芸術を生んだことは間違いない様に思う。

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田 賀 亮 三 「 8 号を待ちながら」 150 号

自由美術の看板の展示部屋が幻想の頃、造形派、知性派に田賀亮三氏がいる。軽妙で創作を楽しみ生きる生活も見事に楽しんでおられ信奉者は多かった。氏の作品の魅力は構成が思いつきや思慮の浅さを感じさせない知性があり俊敏な造形判断が感じられ魅力にあふれていた。理知的に見えたのは色彩の選択にあったのだと思う。思慮深く且つ大胆にまとめてみせた。フランス仕込みに加え少年航空兵が敗戦で散ったことから表にださないディレツタンティズムの香りを漂わせた人であった。戦後の知識人特有のものだったのかも知れない。氏は私が自由の事務所の時病に倒れた。

時の変化と共に日本は世界の多くの国々よりもアメリカ資本主義の色に強く染まってきた。時と共に美術は文学などとは異なり大きくアメリカ化を辿ることとなった。日本に於いてもアーティストは最初の作品開発者でなければならなくなったのである。芸術がファッション化しアメリカ発のニューアートは世界を席巻してゆく時代が来ていた。

現代アートの代表の一人であるアンディーウォホール自身デザイナーとしての成功者であった。彼は芸術市場に対して創造性や自己表現を消去してしまうことで挑戦したのである。しかしも芸術市場に打って出る作品のアイデアを50 ドルで知り合いの女性から買ったのだ。「スープ缶の様に誰にでもわかるもの」というアイデアはそのままシルク作品となり大ヒットした。マリリンモンローが死ぬとすぐにそれを作品(商品)化し大成功を得ました。こうした造形の社会的作用は明らかに戦後自由美術の理念とは大きく隔たったものなのか、通底器の様に同質のものが根底で関係し合っているかはこれからの自由美術の問題であろう。

最後に針生一郎氏(1957 年)の言葉を、自由美術への応援と捉え紹介する。

「百名以上の会員を擁する団体が芸術運動の主体でありうるのかどうかはいう迄も無い」……自分の心理の中のできごとを外界からの圧力と感じたり外部の条件を口実に自分をタナあげしてしまうことがユングのいう「投影」の現象だが自由美術の旗のもとに精進してきた作家達も……ひとりだちの気概が希薄になっていないか、過去の苦闘に満ちた歴史は歴史として自由に大胆に新しい局面をひらく気風がほし

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