「奇想の系譜」から

長谷部 昇

4 月下旬「Fantastic Artin Belgium ベルギー 奇想の系譜」展をめざして宇都宮美術館に出かけた。予想していた以上に説得力あるイメージ豊かな作品群だった。

解説資料によれば、ベルギー・フランドル地方は肥沃な土地と人々の勤勉さもあり、毛織物業や金融・貿易が栄えてきたという。そのため長い年月の間、様々な国(の為政者)によって入れ替わり立ち替わり支配された歴史があったことも紹介されていた。

そのような状況の中で、市民たちが「団結は力なり…」と暗黙のスローガンとして抱き続けてきたこと、同時に民衆に対して教会の教えを伝える共通言語となったのが絵画であったという点にも私は注目した。

その後、さらに足を伸ばして上野で開催されているブリューゲルの「バベルの塔」の世界を久しぶりに堪能した。

15 世紀から現代までの約500 年にわたる奇想の系譜という作品群の中を歩きまわりながら、「この作品を制作した表現者一人ひとりの視点というよりも、この作品世界を受け入れた民衆・市民たちの視点に応えたものなのでは…。そして、その視点に確かに応える・表す力量が問われるのが画家の立場なのでは…」と考えたりしてみた。

そんな時、私は生前お世話になった画家「西 八郎」が追求し続けた激しく厳しい作家姿勢を思い出した。

西 八郎さんは、1973 年に機関誌「自由美術」に「幻想絵画小論」を発表した。その中の次の記述が今も私には強烈である。

「……私たちが描く物象は全て私たちの代弁者の役を持つ。代弁者の姿は出来る限り細密に絵描き出さねばその役をなさぬ。
(中 略)

軍靴が登山靴に間違えられるようでは、その物を選択した意味までもなくしてしまう。
(中 略)

食卓のパンが石ころに見えたりするようでは、はなはだ困るのだ。視覚にうつる事物は勿論、自らの創造による物象であっても意図したとおり描出することを、私たちは自らに要求しなければならない。その求めに応ずる技法は、やはり細密描写をおいてない。(中 略)

パンがパンに見えるまで筆を持ち続けなければならない。

     (以下省略)     」

画面上の代弁者「パン」や「軍靴」などをとおして、西さんは人々に何を語ろうとしたのだろうか。

画家「西 八郎」は自己の表現理論を確かに持ち、数々のすぐれた作品を発表したが。残念なことに1979 年逝去してしまった。

ここで話題を替えて、激動する社会の中での人間の姿・在り方等について考えてみたい。例えば、1960 年代と1970 年代に国内で起きた事件や騒動に対して人々はどのような反応だったのだろうか。

1960 年代と言えば、安保阻止行動(安保闘争)・1960 年や1968 年あたりから始まった学園の民主化をめざした大学紛争を私はすぐに思い出す。これらに共通するのは、共感する多くの国民・市民の側からの熱いエネルギーに支えられた行動であった点。

これに対し、1970 年代に発生した事件としては、1970 年の日航機よど号事件や1974 年の丸の内・三菱重工ビル前の時限爆弾爆発事件が挙げられる。この事件に共通するのは、過激化した特定の集団メンバーによる行動であること。

1970 年代、過激化した集団メンバーが引き起こす騒然とした世情にあって、1960 年代を共感の視点を持って過した表現者たちの中に、独自の新たな表現方法を確立しようと深く思索し、厳しい研鑚を積み重ねる画家たちがいた、その多くの方々は既に鬼籍に入られたが、現在の自由美術の基盤にはその方々の取り組みがあったと言っても過言ではないだろう。

ここまで、極めて個人的なことを支えて長々と書き連ねてしまっだが、最後に3つの「?」とを付記したい。
1. 1970 年代に独自の視点から表現者としての考えを述べた貴重な文章(論文)が沢山ある。他にどんなものがあるか?
2.「奇想の系譜」が注目されている今日、私たちは一人ひとりがどんな生き方をしているのか。自身のチェックが必要では?
3. 表現上の「代弁者」…私の場合は?

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