「自由」は点滅する

小西 熙

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小西  熙

このところ、まことに腹立たしく嘘がまかり通る世相は怪しげな百鬼夜行の様を思わせる。

このようなきな臭い風潮には、美術家の一人としても心奥から関心を傾けなければと思っている。美術家はもとより作品の表現が一番大切なこと、それでもやむにやまれず自作も持って京都の中心の街角に立ち抗議の意志を示す美術家達がいる。※注1 人呼んでこれをサイレント・スタンディングと呼んでいるが、この集まりは会でもなんでもない。ここへ来る美術家達の心が為せるわざだ。表(街頭)に現れるというもう一つの表現に他ならない。今ではもう20名を越えた。昨年、京都の有名ギャラリーのオーナーが応援の展覧会をしようかと申し出をいただいて展覧会をした。ギャラリーが驚く程の一週間で1,000名を越える人が訪れた。この後、他の画廊から「なんで私のところでやってくれへんの!」と叱られて、二つの画廊合わせて110名ものジャンルを越える美術家の出品があった。今年もまた祇園祭りの時期を皮切りに京都と舞鶴で展覧会を開くことになっている。タイトルは少し長いが『いま、戦争の兆しに心いたむ美術家たちの作品展』PART3+4である。

5月、都美術館での会員会議に出席。自由美術をこれからどうして行けばよいだろうという相談、本当に数知れず公募展も出来、展覧会を開催するのも大変な時代になってきた。生き残りだって大変だ。どうしていいかさっぱり智慧など浮かばぬ身には自由美術の「自由」について考えるしかない。イデーを考えると空回りするばかりだが、単なる延命でなくとなればやはり「自由」を考える。「自由」は自由美術が被っている帽子、今、この帽子は自由美術に似合っているのだろうかと。

かつて冊子「自由美術」の中に、自由美術の動きとして創立後の歴史が4期に分けて短く記されていた。その後自由美術のあゆみとして戦前の自由と戦後の自由という文言が記されている。共に短文で、私の出品以前の自由美術のこと、想像するばかりだけれど、おおよその自由美術という骨格の成り立ちはうかがえる。

敗戦後、再興した自由美術の暗い絵とヒューマニズムについて、また戦前、戦後という具体的な時期についての「自由」の姿は、今日の自由美術も考えるうえでのヒントを与えてくれるのではないか。

この二つの短文は最近の出品者や今後の出品者にとっても自由美術を識ってもらう参考にならないだろうか。私はITもやらないので既に自由美術ホームページで掲載されているのであれば、余計なことと御容赦をいただきたい。

私の自由美術初出品はもう53年前、それ以降不思議なことに15年サイクルでテーマが変わった。だけど、今振り返ってみると中味は殆ど変わっていない。性分もあって厳しい絵は描けない、といって何も描いたと自問自答しても言葉に窮する。以前、お前の絵は考古学的絵画だと云った方がいた。で理由を聞いてみると、意識・無意識の底に溜まっている過去の記憶や断片をつなぎ合わせて描いているように見えるから、画面の中に何処かで見たとか、それを知ってるとかという気持ちが湧いてくる。だからそれを考古学的といったのだと。そのように私が一度も考えたこともないことを云われて吃驚仰天した、と同時に作者より上手に語られることにも感嘆したが、私自身は決してそんな風には描いていないと思っている。絵とは恐ろしいものだと思う。外へ出れば親(私)の知らない付き合いをしているのだ。気を付けようと思っても……結構、頭隠して尻隠さずになっているかもしれない。

今は4つ目のテーマ「PAYSAGE」(風景)というタイトルでくくって描いている。これはその前に続けていた「床屋シリーズ」の中から、客の頭とオヤジの頭が外とのつながりを求めて飛び出し、そのデッサンの結果が2つの山のようになった。そこにしたがって私なりの落着きのデッサンを繰り返している。

半世紀を振り返ってみても、ただ少し遅れ気味にゆくのが性に合ってるようだ。

梅雨のはじまりの頃、一夜の激しい雨の中で我が家の外灯は永年の働きを終えた。しばらくして新しい外灯がやって来た。これははじめて見る自動点灯式。夕闇が濃くなると自分で点灯し夜明けとともに消灯する。その様を見ていると、どこか「自由」に似ているような気がする。「自由」というイデーは極めて自覚的なものだ。

戦前、戦後の自由。高度成長期の自由は余り名前を聞かなくなっていた。それから自由は何処へ行っていた。2017年の自由、そして美術家の自由。

※注1 サイレント・スタンディングの人達を中心に行われた案内ハガキの文言 2013年、この国で戦争の道へ踏み出す立法がはじまったとき、美術家たちは古めかしい亡霊の出現に心をいため平和への素朴なこころざしをあらわす作品をかかげながら、毎月9日に町へ出ました。ただ立って、以来今も続いている未来の行方に警鐘をうつ寡黙なメッセージのはじまりでした。(文・真鍋宗平) 

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