自由への精神

森 田 しのぶ

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森 田 しのぶ「生命の回想 0176」

いつの頃か、まだ自分が何なのかを模索していた頃だった。お芝居、映画、音楽など異端的な興味のあるものは片っ端から見たり聴いたりそういう場所に足繁く通った時代があった。

異端的なもの、あるいは普遍的なものに私は興味が沸き、当たり前の事では物足りなく、屈折したものの方がワクワクした。何故なのかよくわからないけれどおそらく人工的なものより自然的で泥臭いものの方がぐっと、生きているという実感を感じられたのかもしれない。そういう二十代にかつて自由の会員である猪口淳の作品を見て私は衝撃が走った。絵を描くという事はこうなんだと…。

40 年前、鳥取のとあるギャラリーて、2ヵ月に1回という当時の鳥取では活気的なグループ展が開かれていた。6畳ばかりの薄暗いギャラリーだが、作品はここばかりに主張し白熱していた。

メンバーはニシオトミジ、猪口淳、山本恵三、他6人展であった。その後縁あり、自由美術との出会いがあった。東京都美術での秋の本展ではシュールな作品が軒を連ねていて一種独特の世界観を漂わせていた。その頃私にとってそれぞれの作品はとてつもなく大きく、強く感じられた。私は胸を震わせ一点一点作品を見入り、一作一作に作家の命の執念、まさに命を削って表現されている。本当の意味での「絵を描く」と言う事を深く考えさせられたものであった。

シュール系の作品はそういう意味では存在感がある。主張する白熱した作品群が会場の空気を内包し、刺激し、私は感動を覚えた。意欲を沸き立たせてくれた。私はいつの頃か様々な自然界の生物体(私達も含め微生物からミクロの世界まで)は同じメカニズムで構成されている事だと思う様になった。具体物を変形、拡大、増殖し、のびやかな触角は被膜となる。ゆるやかな生命の回想が果てしなく形成され営まれていく。こんな世界観の中、まるで自然界とは程遠い色彩とリアリティのあるフォルムを融合し、調和を図る事で作品が形成されている。

人が感動する場面とはどの様な時なのだろうか。作者の表現したい事が見る側に伝わり、作品との対話が成立する事だと思っている。シュールには強烈な主張がある。社会風刺であったりあるいは自己逃避、自己陶酔と様々な内的意識の中で自己を誤魔化す事も無く、表現しているからこそ見る側、我々が深く感銘し記憶される。これは我々の中に共通する何かがあり、作品を受け止める力が発生する。過去、もしくはもっと何か解らない過去への記憶の中にある何かなのかも知れない。

近年自由の展覧会は、年々程よくスマートな作品が目立って来ている。確かに会場は明るく、すっきり見やすくなっているのは事実だが、自由美術本来の風刺であったり個性の主張も段々希薄になっている様な気がする。これは時代の中の変化なのだろうか。我々は今まで先人達の築いた自由への精神を軸に、今一度見つめ直し、自由への拘わりとは何なのかを考え認識し、より厚みのある活気的な会場にするにはどうなのか、今一度今だからこそ私達は考える必要があるのではあるまいか。

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