画家 小野木 学の仕事

−自由美術での活動を中心に−

練馬区立美術館 学芸員 真 子 み ほ

練馬区立美術館は、1985 年に開館し、今年32 年目を迎える中規模美術館です。所蔵品は、日本の近現代美術を中心に寄託を含めて6,000点を超え、近年では海外の作品や日本近世のものなどその種類も多様になってきています。

所蔵品のひとつの柱として練馬にゆかりの作家作品があります。今回ご紹介する自由美術家協会に属していた画家・小野木学は、その中でも所蔵点数の一番多い作家です。1986 年に開催された没後10 年の回顧展をはじめとし、コレクションを使った小展示も含めると過去5回ほどの企画が開催されてきました。ただ、小野木の重要な仕事のひとつである絵本や児童書の挿し絵の仕事については、原画を多くご寄贈いただいたもののこれまでまとまった紹介はされてきませんでした。そこで本年練馬区立美術館では、絵本原画を中心として、小野木の挿し絵の仕事を振り返る展覧会を開催予定です。今回は小野木と自由美術との関係や挿し絵の仕事についてご紹介したいと思います。

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第17回 自由美術展出品作  「民話」 1953年

小野木学は、1924 年東京府北豊島郡巣鴨町に生まれました。旧制中学在学中に軍事訓練の過労から肺を病み、卒業後は農林省大宮種畜場に勤務しながら絵を描くようになります。23歳頃喀血し療養生活を送ったことにより芸術家として生きることを決意。25 歳頃自宅に戻って本格的に独学で絵画を学び始め、1953 年29歳で初めて第17 回自由美時展に出品しています。出品作は<民話>。武骨な形態を配した抽象的な油彩画で、ごつごつとしたマチエールが印象的です。自由美術に出品した理由を小野木は明らかにしなかったそうですが、「理論的に自分の動機といったものは体系づけて言いたくない気持ちです。どっちかと言えば、動物が水とか草とか風の匂いを嗅ぎ分けて、そっちの方へ行く、そういうものがあったんだろうと思う。」と1958 年の『自由美術 NO.17』で語っています。(注ⅰ)

1947 年頃、戦前の「自由美術」を中心に戦後新たに他組織を離脱して参加した作家たちで再結成された自由美術家協会は、小野木が出品し始めた頃には新人の大量導入で、かなり規模の大きな公募展となっていました。小野木が初出品した1953 年の絵画の搬入点数は2,345 点、55 年には2,720 点を数えたと言います。そんななか1959 年には会員に登録され、63 年の退会までの10 年間、小野木の画業の一時代は自由美術家協会とともにありました。

1954 年には<金曜会>にも入会し、翌年よりグループ展に出品しています。<金曜会>は、東京教育大学(1978 年閉校、筑波大学の母体となる)教育学部芸術学科の学生で、自由美術出品者であった磯村俊之、大村連、加藤一、小林節夫、小林琢の5名によって1950 年に結成された会で、小野木は第2回から参加した塩水流功の紹介で入会しています。金曜会では作品合評会が開催され、小野木は毎月出席していたようです。さらに59 年、小野木と前後して会員となった自由美術の新進気鋭の作家たちで組織された(27 日会)(上原二郎、加納敬次、羽田重亮、中本達也、早川重章、曹ジョヤンギュ良奎、上野実、西八郎、井上武吉ら10 名)にも参加。こちらも毎月各人の作品を批評し合う会が開かれていたということです。

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第22回 自由美術展出品作「かほ」1958年

こうした協会内での直接的な作家同士の関係性の他に、自由美術で知り合い個人的に親しく行き来していた作家達とは後々までも交流が続いていたようです。1955 年、杉並区松ノ木から練馬区谷原町(現在の高野台)に居を移しアトリエを構えたことから、周辺に住む佐田勝や倉石隆、司修らと交流が深まります。特に倉石隆、司修とは、司氏によると「毎晩のように誰かの家で飲んでしゃべっていた」というほど仲が良く、ここに「こぐま社」を立ち上げたばかりの編集者佐藤英和やこぐま社に嘱託で関わっていた緑川紀子(1968 年小野木との共作でこぐま社から『なないろのあめ』を出版)も加わり、後の絵本作り(1969 年『さよならチプロ』)にもつながっていきます。

こぐま社の絵本といえば、当初、四色分解を行うよりも安くきれいな色を使いたいという佐藤の考えでリトグラフの手法が印刷に使われていました。作家は、一版一版色ごとにジンク版という亜鉛の板に直接描いていくのです。つまり色の入った状態での原画は存在せず(墨書きのみ現存)、絵本自体が原画という、贅沢な作り方をしていました。(注ⅱ)司は編集者の佐藤に声を掛けられた時、版画の手法で作るということに興味をひかれ、こぐま社第一号の絵本『ほしのひかったそのばんに』(わだよしおみ・文、司修・絵、1966 年)が出来上がったと言います。その版画の手法を司が見せてもらった際、小野木も誘われて見学したとのことです。以前から司とは知り合っていましたが、自由美術退会後の1965 年、版画家の吉田穂高に誘われて大泉学園の司のアトリエでシルクスクリーンを教わったことから交流が盛んになったようです。62 年頃、小野木の作品は、それまでの絵具を様々に塗り込めながら存在感を浮き上がらせたものから、一色の絵具を画面の隅々にまで刷毛で引き伸ばしていくフラットであり深遠な抽象画に移行していました。そうした作風が、平坦にインクを乗せるシルクスクリーンの手法にぴたりと合い、以後亡くなる年まで小野木作品の一つの柱となります。

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第23回 自由美術展出品作「戦史」1959年

こうした様々な出会いがあり、また画家としての出発点だった自由美術協会を、小野木は1963 年に退会します。初出品同様、その理由を小野木は言葉にしていませんが、社会的な背景と自由美術の内部の変化、そして作家生活10 年以上を経た個人的な変化の時期であったこと、それぞれの理由があると思われます。

まず社会的背景としては、59 年から60 年の安保条約の改正を巡る論議の高まりに、美術家たちも巻き込まれていったことがひとつ大きな点と見ることができます。この時期、文化に関わる各分野の人々が結集した「安保批判の会」や「全国美術家協議会」が組織され、条約の研究集会やデモ、カンパなどが行われていました。小野木も協会とは別に< 27 日会>の数人のメンバーとともにデモに参加しています。「だが、反対派のエネルギーがそのまま賛成派に吸収され、すべてがなし崩しにされていく日常の現実をまのあたりにして、同次元でたたかうことの無意味さを痛感させられたであろうと、思う。」(注ⅲ)と、菅原猛が回想しているように、同時代の人々の多くも感じたゆがみが、少なからず小野木にも影響を与え何かしらの転機を迎えたと考えてもよいでしょう。

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第26回 自由美術展出品作 「普通の風景」     1962年

またこうした時代の動きに加え、公募展も回を重ねるごとに点数も増え、なにか発足当初とは違ったエネルギーが渦巻いていたことも、自由美術を離れる要因になったと考えられます。1962 年には「今年の自由美術の会場には驚かされた。会場の混乱ぶり(三段がけ)もさることながら、何かの社会的なテーマ展なのではないかと思った程、累計的なスローガンを叫んでいる作品が目立ったからだ。作品云々よりも会自体が混乱しているのではないか、団体展のどうにもならぬ行き詰まりの破綻がかつての美術界のエネルギー源のような存在としてみられていたこの回のこの会場に最も強く感じられたのは考えさせられる。もはや、個々の作家が一隅に光る作品を出品するということでは収拾のつかぬ所まできてしまっているのだろうか。(注ⅳ)」という混乱ぶりであったようです。小野木は61 年の6月から翌年7月まで約1年間パリを中心にヨーロッパを旅行しています。帰国した彼の目に、展覧会はどのように映っていたのでしょうか。

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第3回シェル美術賞展第2席受賞作「首馬」
1959年『美術手帖』12号より転載

また前述のように、1962 年頃から小野木の作風は大きく変化を遂げました。抽象、半袖象ともに木馬や凧、人物などなんらかのモチーフを登場させていたそれまでとは打って変わり、以後の平坦な抽象画面のほとんどが「風景」と名付けられています。62 年の第26 回自由美術展に出品した<普通の景色>はその初期に当たり、後に多く描かれる青一色の「風景」連作の出発点ともなりました。

いくつかの要因があり、自由美術を退会した小野木ではありましたが、入れ替わるようにこの頃から挿し絵の仕事が増えていきます。50年代初めから編集者の紹介で教科書の表紙や挿し絵の仕事をこなしていましたが、翻訳児童書や絵本を皮切りに自身の創作絵本を4冊世に送り出すなど「創作の場」としての挿絵の存在が大きくなっていきました。亡くなるまでの10数年で出版された書籍は80 冊以上となります。69 年から70 年にかけてのアトリエの改築で油彩も版画もほとんど制作できなかったという要因もあるのか、この時期集中的に挿し絵や絵本の仕事が行われ、1970 年には『おんどりと二まいのきんか』(ポプラ社、1969 年)や『宇宙ねこの火星たんけん』(岩崎書店、1968 年)など一連の作品で小学館絵画賞を受賞。また文・絵ともに担当した『かたあしだちょうのエルフ』(ポプラ社、1970 年)は、71 年の青少年読書感想文コンクールの課題図書ともなっています。

小野木は60 年代後半より、児童書の挿し絵や絵本に使う名を「おのき4 がく」としていました。「おのぎ4 がく」という読みで絵画の個展を続けていたことを思うと、これは明らかに2つの仕事の間に線を引いていたと考えられます。もちろん挿絵は収入源のひとつであり、絵画や版画制作と同じ次元に捉えてはいなかったのでしょうが、なにか小野木の中の違う部分がそれぞれの仕事に使われていたとも思うのです。小野木は小学館絵本賞受賞時のスピーチで「ぼくは絵本を描くことで、自身の中のこどもを確かめているのでしょう。」と話しています。絵画や版画の多くを語らない厳しさに対し、挿し絵の小野木はある意味饒舌です。ダチョウの悲しみや勇気、積み木たちの困難な冒険と安住の地を見つけた充足感、孤独な老人と子どものつかの間の交流、昔話の主人公たちの生き生きとした姿……。「こども」とは実際の子どもでもありますが、世の中を驚きを持って見つめる、その眼をさしているのかもしれません。逆に「おとな」であることはその眼がとらえたものを蓄え熟成させアウトプットしていく行為なのかもしれません。これがあの深遠な抽象画に昇華され、また挿し絵と絵画、両者があることで小野木学という作家の全体像が見えてくると言ってよいのではないでしょうか。

小野木学にとって自由美術家協会は、画家生活の3分の1ほどを過ごし、仲間を得、その後の創作の世界を作っていった場所でした。今回の展覧会は小さなスペースですが、自由美術展出品作も含め小野木の作家としての全体像が見えるようなものを考えています。ご高覧に加え、忌憚なきご意見をいただければ幸いです。

(注i) 厳密には一般出品者の座談会で名前を伏せた「E氏」の発言。発言内容から菅原猛はこのE氏を小野木としている。(「小野木学一人と作品一」『没後10 年 小野木学の世界』練馬区立美術館、1986 年)
(注ⅱ)佐藤英和『絵本に魅せられて』こぐま社、2016 年、p.145
(注ⅲ)菅原猛「小野木学一人と作品一」『没後10 年 小野木学の世界』練馬区立美術館、1986 年、p.9
(注ⅳ)「印象に残る作品 独立・二紀・自由美術展」『美術ジャーナル』1962 年11・12 合併号、p.57
●小野木学 絵本原画展−ぼくの中のコドモ−」onoki 6.jpg
会期‥11 月26 日(日)〜2月11 日(日)
会場‥練馬区立美術館2階展示室
観覧料‥無料

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