私はこうして自由美術にたどりついた

竹 中 稔 量

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「犠牲者」                  竹中稔量

自由美術展が第80回をむかえる。私も昨年(2015年)11月に満80才となり、年毎に体力の衰えを感じつつ作品に向かっています。周囲にも心おきなく話せる仲間が一人また一人と、あの世に旅立って行き寂しい思いでいます。私自身いつまで生きて制作が続けられるのか不安を抱きながら作品に取り組むこの頃です。

思い起せば、60数年前、初めて油彩の道具を手にしたとき(高校1年の終り頃)美術部の部長であったMさん(以前自由美術展に大阪から出品していた)に連れられて、新年のお年玉で貯めたわずかばかりのお金を持ち画材屋へ行き、単価の安い絵具、筆、油、パレットを購入。最初にこれらを入れて持ち運びのできるスケッチ箱を作ることから始めた。これが油彩を始める第一歩であった。

この頃、新制高校は戦前戦中にあった公立中学が地域別は統合され、数校の中学が一校にまとめられて一つの高校となっていた。そのため学校には3・4人の美術の先生がおられた。

自由美術会員の山田光春、二紀会同人の市野長之介、一水会会員の井戸三郎(この頃はまだ一般出品)がおられ、中でも生徒たちから(特に美術部の先輩達から敬愛されていたのが山田光春先生であった。)しかし山田先生は病気療養中であった。しかし私が2年生になり美術部の部長になったあと病が治り復職され、美術部の顧問として、色々と私自身としても、また部としてもお世話になった。この頃名古屋では松坂屋本店の北側にあるオフィスビルの2階にある小さな画廊で中部自由美術の小品展が開かれ、山田先生はじめ数人の高校の先輩たちが出品していた。思えば、自由美術の人たちとの最初の接触であったように思う。

私は1才3ケ月で母を亡くし、祖母に育てられたが、私が6才のとき父は後妻をもらってその義母も私を可愛がってくれたが、7才下で妹、10才下で弟ができ、私は次第に一家の中で孤立していくのを感じていた。義母は私に好きなことをさせてくれた。小学では紙工作、ゴム動力の飛行機、中学では小鳥の飼育、真空管ラジオの組立、この技術は高校生になってからラジオ屋のアルバイトに役立った。そして高校に入って絵画制作の面白さにはまり込んで没頭してしまった。それは1年上のSさんに会ったこと(彼は現在二科会会友)。彼は私の絵を認め自宅に誘ってくれた。堀川端の材木屋の長男で二階が彼の部屋で描きかけの作品が並んでいた。今まで見たこともない絵だ。その中で、自分独自の個性を発揮し制作に打ち込むことに情熱を炎やすことの大切さを教えられた。当時学生油絵コンクールと云う公募展がありSさんは文部大臣賞を受賞している。私は翌年・翌々年と出品したが単なる入選に終わっていた。しかし、絵を画くことへの情熱はますます高くなり、この頃中部地区の画家たちが立ち上げた「中部美術連盟展」という公募展があり、私はM30の「都会の蔭で」という題名の作品を出品し入選した。この作品は私の青春時代の傑作として今も私の手元に残っている。

大学(愛知学芸大学・美術科)に入って、六角尚武君と知り合う。そして彼が亡くなるまで親友として交友を深めてきた。彼や先輩たちに誘われ、名古屋で前衛集団というグループの結成に参加した。年2回の展覧会を開催している。グループの中には後に自由美術の会員となる伊藤博氏や立体の伊藤均氏、六角尚武氏らがいて魅力ある作品を発表していた。しかし、この仲間も大学を卒業するころから退会していった。この20代前半の頃は私の迷走の時代であった。1953年愛知県立美術館が新設され、多くの美術団体が展覧会を開くようになった。そんな中、中部自由美術協会も巡回展を開催している。(この展覧会では伊藤博氏が初入選した。)中部自由美術も会場を借り中部展を開催するが、会場の広さに比べ出品点数が少ないのか、恩師山田光春先生より出品しないかと声がかかり、数点出品することになった。故はらた・はじむ氏と知り合った最初である。しかし、私はこれ以後は自由美術展には出品していない。その理由はお金がないのが第一であるが、その頃、中部の雰囲気に何かなじめないものがあったからと云うか、絵画そのものに対する疑問、ビジアルな世界への興味など、この20才代は目的がゆらぎ何を画き、造り上げてよいのか迷走していたのだ。絵画制作も数年中断してしまい、小学校教師として勤務していた学校も退職し、友人と共にデザイン事務所を立ち上げ、主にプロダクトの仕事をはじめ、親友の六角氏も参同し病気療養しながらパッケージなどデザインを自宅で行っていた。事務所も順調で、資本を出し合って法人化することになった。しかし私は、どうしても、自分自身の体内から絵画へ情熱というか、自分を持ち上げてくる強い絵を画くことへの意欲を圧えきれなくなり油絵具を引張だし制作に取り組むようになった。私は名古屋で平和を愛し、社会の状況に厳しい目で対応する絵画集団「グループ8月」に参加し作品発表の場を得た。その中には、はらた・はじむ、阪野耿一、山下弘㐂氏らが自由美術から参加していた。皆さんから評価されるような絵を画くために、もう一度教員に復帰すべきだと考え、再び途中採用試験を受け、中学校の美術教師となって4年間のブランクの後復職した。この時の私は絵画に対する理論も技法もかなぐり捨て、体内から湧き出てくる、社会に対する憤り、出来事への自説を感情と共に色彩や形体をもっと自由に表現したいと考えるようになっていた。

新ためて赴任した中学の校長は、こう言って私を紹介してくれた。「竹中先生は、みなさんと違い一度教員を離職し教員社会ではない別の仕事、いわゆる『外めしを食べてきた』人です。我々のように教員一筋にやってきたみなさんより幅の広い体験や考えをお持ちのはずです。我々もそうした広い視野を持つことが望ましい!」と話され、私は感激し、この学校でなら自分の素質を思う存分発揮できる、と感じ取った。時は東京オリンピックに湧き立っていた。

こんな頃、愛知県の教育振興会が出版している「子とともに」という月刊誌があり、毎号「一枚の絵」と云う頁があり、はらた・はじむ氏の父である原田隆諦先生の「奥入瀬渓谷」が掲載され、その絵のコメントを、はらた・はじむ氏が書かれていた。(父の原田先生は、当時の愛知第一師範学校教頭であり美術科教授であった)

はらた氏はこう述べている「父は自然主義の作家で“何も足さない、何も引かない”をモットーに作品を描き、自然を忠実に再現する作家であった。また美術教師として、学生たちには『教・美一体』と云う言葉を投げかけ続けていた。」と書いている。私はこの言葉を読んで背筋が引き締まる思いをした。これだ、教師としての使命にも、作品制作を続けることも全力で取り組むべきだと。どちらに対しても手を抜かないで、力いっぱい頑張ることだと我身に言い聞かせたのです。幸い同僚たちも気持ちよく私を応援してくれた。

私の作品は私をとりまく多くの事件、社会の出来事がテーマとなり、それに対する怒り、悲しみ、批判、私見が形となって、また精神的には社会への批判、弱者の側に立った考えや思想が形となったりして作品に現れる。このことは1999年私の回顧的個展について、2000年4月号の自由美術機関誌にかつての自由美術の会員であった大橋忠幸氏が執筆し掲載された文章の通りであり、興味があればご一読願いたい。

私は1969年自由美術展に初出品するが落選、翌年'65年初入選を果たすが自分ではあまり満足できる作品ではなかった。私は開き直った気持ちで、これまでの考え方を捨て、がむしゃらに体内から湧き上がってくる形や物を画面にたたき込んでいった。一ケ月に数枚のペースで描き上げて行った。作品は誰が見ても荒々しく未熟なものであった。この時期は成長期にあった日本、ダンプが走りまわり、中学の生徒たちの自転車通学路も危険であった。夕方下校途中 国道で事故が起き2人の女子生徒が巻き込まれた。私たち教師はすぐ現場や病院に駆け付けたが一人は軽傷であったが、もう一人純子ちゃんはその日の夜遅く帰らぬ人となった。このことを目の当たりにした私はすぐに絵筆をとっていた。作品は「犠牲者」である。社会の発展の中で忘れさられていく、公害、弱者への配慮に憤りを感じつつ、この年(1966年)この作品のほか4・5点の作品を出品している。そして自由美術協会より入選通知と共に「あなたは、我々の仲間として制作活動を共にしていく力量をお持ちと認めます。よって自由美術会会員とします。共に力を発揮しましょう。」とあった。こうして私はようやく自由美術にたどり着いたのである。

以来50年自由美術協会との関わりとともに、中部地区の事務局員や事務所として恥ずかしくない作品を発表したいと努力してきた。一方では中部自由美術協会の発展と出品者たちへの配慮にも力を入れてきた。

会員として出品するが、当時は主体美術と決別した中、「会員も審査を行うべき」という主張が高まり審査を実施していた。会員であっても展示されない作品もあり、緊張感を持っての中で制作を続けることで、私は不安であったが、自分自身を一層、内容の充実した絵を画こうと意欲をかきたてたのであった。「自由美術は会員にしたあとの方が厳しいよ!」と云った人がいた。しかし当時は都立美術館の会場で懇親会があり、展覧会場の中で大机を囲み酒を飲み、議論や歌を唄ったりと、賑やかで活気に満ちていた。中部でも古い美術館の頃は同様で色々な事についても大らかで正月元旦から楽しい巡回展が催されていた。この50年次々と親しくして下さった会員のみなさんが他界されていく寂しさに堪え難い。この稿を書いているさなか川上十郎さんの訃報に接し、一木さんに続いてのことで、ショックで頭の中が真っ白になり、以下、自由美術でのエピソードなど書こうとしたが、できなくなってしまった。これで終わりにします。今日何も手につかない。2016年80才と7ケ月、何を目指すべきか?亡くなった人の穴を埋めるべく頑張っていきたい。

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