上野・美術館・自由美術展

池 田 宗 弘

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「サーカスのシリーズ・No.48」                 池田宗弘

 5月下旬、自由美術の編集部の締め切りがあ と一ヵ月になってしまった。あれこれ構想を練りつつも新聞を見ていた26日、吉祥寺の井の頭公園で象の花子が老衰で死んだとの記事と子象の姿の写真がのせられていた。

これは私が自由美術に初出品した時よりもう少し以前の情景を思い出すきっかけとなった。斯様なわけで上野に関わる事から書き始める。

1945年3月9日から10日にかけての空襲で東京の下町は一面の焼け野原になった。亀戸の我が家は跡形もなくなった。上野駅の南口から左下に斜めに地下鉄の乗場に向かう時、いつも70年前の情景が目に浮かぶ。この地下道には足の踏み場も無い程、焼け出され、行き場の無くなった人達がしゃがみ、うずくまり、横たわりなにを為すでもなく群れていた。ここの通路の幅も傾斜も足下の感触も当時のままだ。子供の私でさえ通路に僅かに開かれた狭い空間を用心して彼らを踏まない様に歩かなければならなかった。そんな大人達や子供達も何時の頃からかその姿は見なくなった。戦中の下町の子供は浅草の花屋敷や万世橋の交通博物館、錦糸町の江東楽天地などに連れていってもらうのが楽しみになっていた。戦後は上野の帝室博物館(国立博物館)や科学博物館にも足をはこび沢山の珍しい物を初めて目にした。駅からこれらの施設に向かう時に左奥に窓のない壁と幅広の階段とその上に並ぶ円柱の何やら謎めいた建物は何だろうといつも不思議に思って近づくこともなかった。

1949年10歳だった私は動物園に向かう象を母と一緒に見ていた。大勢の大人と子供に歓迎されながら象は門に入っていった。その当時描いた鼻を上げた象の絵は今でも手元に残っている。これが死んだ象の花子だ。

中学生になったある日、友人の家が持っているアパートの住人の画家が上野の美術展に絵を出しているから、と招待券をくれた。1954年1月31日・日曜日。何時も遠くから見ていたあの建物に初めて足を踏み入れた。博物館には一人で何度も入っていたが迫力の有る大きな扉を潜るにはかなり緊張していた、、しかし、ここがその後の私の人生に深くかかわる場所になる等とはその時は夢にも思ってはいなかった。会場には今まで見たことのない画面の油絵が並ぶ、生まれて初めて絵描きの作品を見て唯々驚き外に出た。その後は国立博物館に寄る。1959年から4年間、具象彫刻の基礎を清水多嘉示師の教えをうけつつ、しばしば彫刻教室にモデルのデッサンに来る画家の井上長三郎師から作品評や現役作家としての考え方や当時の社会や政治体制への見方等の話を聞く。学生時代は清水師の参加する日展と井上師の自由美術の展覧会は勿論、主要公募展には足繁く通い、自分の考えと表現を進めるのに最も適していると思われる場を探していた。63年卒業。当時の自由美術の会場には戦中から戦後にかけてのさまざまの体験の中で己の表現に忠実であった多くの作家が参加し、さらに新たな表現に取り組む若手の気迫と熱気の様なものが強く感じられた。1963年10月12日から始まる自由美術展に初出品する作品と共に都美館の搬入口に到着する。当時の裏口は芸大の方にあり車寄せの上には屋根等の雨除けの設備もなかった。扉の位置から床が路面より一段上がっているので台車の移動も甚だ不自由だった。入った直ぐの室内には受付用の机と何人かの係の会員の先生方が控えている。初出品の若者にとっては何やら偉そうな様子の彼等に嫌われて落選させられたら嫌なので言葉や物腰には気をつける。搬入した左の部屋に自分の作品を運び込む。初出品の作品は自分の美学で、薄く、細く、軽く一切の彫刻的量感を拒否した型抜きの出来ない抜けた空間の多い形を求めた具象作品の新しい表現を目指したもので従来の人体彫刻からは前例の無い技法も工夫して制作した。

斯くのごとき作品の構想は、空襲の焼け跡に様々な姿で横たわる無数の人間の死体の中から立ち上がる人間の不屈の姿と、無名で貧しいバイト暮らしの自分が未来に向けて立った姿を重ねてこの形にした、銅板と鉄筋と釘を溶接してこしらえ題名は《立つ人》にした。これを拒否するか人選かは当時の会員諸氏の感性に委ね、己の作品を眺め検討していた時、小柄で上品な、受付近辺の諸氏には感じられなかった芸術家のイメージにピッタリの年配のベレー帽の似合う老人がそぱに来られ、優しく少し特徴のある語り口で質問された。この時は受け付け係の人達も取り巻くように立って会話に耳を傾けていた。白髪と皺の深い顔の為で老人に見えた彼はこの当時は50歳だったので今の自分よりは余程お若い筈なのに独特の穏やかな厳しい空気を漂わせて居られた。

彼に私は清水先生の教えを受けた(注1)と答えると顔の皺をさらに深くして微笑む、私は『武蔵美の指導者の名前は有るのに峯先生にはとうとうお目に掛かれず作品は知って居るのに残念でした』というと、周りの会員たちは笑い出し、誰かが『目の前に居られるよ…』と声を掛けた。初対面のこの人こそ峯孝先生本人だったのだ。『これからは大変だろうが勉強は続ける様に』との峯孝先生の言葉を実感する生活が以来今日まで続いている。

初入選の知らせはどれ程私を元気にしたことか。当時の自由美術の彫刻部の会員は22名、人選者は26名で初人選は自分を含めて10名だ。当時の会員で昨年の秋の発表までの現役は安藤士氏と中嶋一雄氏の二人だけ。出品者では私より以前から出していた北村隆博氏、安丸信行氏、垣内治雄氏(2016年4月4日・逝去)そして私と同じ初出品の人で今も活躍しているのは長嶋栄次氏だけだ。彫刻部の懇親会を池袋の韓国料理店ですると言うので出ることにして、クラスメートの草野真津視氏(故人)や一年先輩の安丸氏等と皆の後について行く。池袋は戦前戦後と何かと利用していた駅なので思い出す事も多い。戦争中はたまたま空襲警報が発令されて駅にあった唯一つの乗り換え用のせまい地下道に乗客全員は避難させられて小さくうずくまった。駅の外、大塚寄りにも西口と東口をつなぐ狭く汚い地下道があったが、懇親会には中央地下道を使って西口に出る、整備される前のそこは狭い広場になっていて真っ正面にはバラックの小さな飲み屋がまるでトンネルのような一本道を形作って立教大学の方向に続いていた。その路地の人口、右の角にはガラスの粗末なショウウインドウが有り何の店なのかは解からないがものすごい数の蛇が蠢いたり、とぐろを巻いたり、作り付けの木の枝ではバスケットボール程の塊になっていた。終戦直後から叩き売りをやっている店もまだある。そんな風景を左に視て線路沿いの道を大塚方面に進んだ左に韓国料理屋はあった。二階の座敷で銘々奥のほうから座を占めるが自分はこの座の末席と思われる位置に着く。今とは異なり上座下座は常識の事として口には出さないが皆は心得ていた時代なのだ。自由な精神で己の信ずる表現を追求することの出来る場に身をおいてはいるもののやはり他人同士が集まり、団体を形成しているので会としての一定の方向性と秩序は当然感じられた。特に60年安保の時代の井上長三郎師の彫刻教室での言は多くの若い学生に様々な事を考えさせた。それでも初出品の彫刻部の空気は自由な明るさが有り、先輩の会員諸氏の言葉や態度に前向きの希望と元気を頂戴したような気がした。上座の峯孝(以下文中の敬称は略す)の横に体格の良い体育会系のしやれた服装の人は木内岬。ひょろりと背の高い大村清隆と新田実。邪心のない顔の佐野文夫。皆初対面の人達だが続いて座を占める多くの出席者の中にはバイトで世話になっている富樫一の気力満々の髭面や、その同級生の文学青年の様な雰囲気の赤荻賢司のメガネ顔、ふっくらとした色白の柔道をやっていた大柄な田島義朗。やせて目だけぎょろぎょろしている中嶋一雄等々、普段の目の前の先輩とは異なる距離感を感じさせられたのも事実だ。かれらは自由美術の新進気鋭の会員の気合いと自信に満ちていた。

良く飲み、多いに語るが潰れる者は居ない。外に出て当たり前に先輩達は池袋の駅に向かう、しかし左の西口の前を通過して線路に沿って今度は目白駅の方に歩いて行く。下りの坂にかかる辺りにある最初の路地を右に人り20メートル程進と左に緩やかな坂道がある、その角をまがって右側二軒目に珊瑚と墨書きされた提灯が下った店があった。この日は自由美術の彫刻部の貸し切りの様な感じでたいして広くない店は満席になった。泡盛と沖縄料理で知られる店は絵描きの常連もいて大野五郎・寺田政明の名も耳にする。中に入ると左に厨房を囲んでエル字形にカウンター席、奥に直進する狭い通路の右は簡単な仕切りがあり中はテーブル席になっていて壁には狭い幅の作り付けの椅子が設えられてあった。切れ長の目の和服に割烹着の女将は顔馴染みの見えないのを気にして『今日は佐野さんは?』と尋ねる。『彼は自転車を取りに行っているので直ぐに来るよ…』(注2)と誰かが答える。その間に店のバイトの女の子がグラスや猪口をセットする。座席の奥の石壁の棚には無駄の無い静かなブロンズの女性の頭部やヌードの立像の小品が並び我等の二次会の場の雰囲気を盛り上げているようだ。この彫刻は木内岬(注3)の仕事とのことで美しい作品だ。作者本人はなぜかここには来ていない。肩と肩が触れあう状態なので席は分断されずお互いの話が良く聞ける。誰が何を思い語るのか、それに対して別の意見や返答が飛び交わされ会員遠の会に対する考え方や作品への熱い思いや造形に対する論等も身近に知る事が出来た。これは新人の自分には多いに有効な場であり、団体展に参加したからこそ他の作家遠の生の声が直接に聞けたのだ。この時代の都美館は正面入口を入り、ホールを直進すると一階の彫刻展示室の広い空間を見下ろすことができた。天井のスリガラスからの光は明るく柔らかく、大空間に屋外とは異なる世界を見せている。そこの彫刻の柔らかな陰影は太陽光の強い陰影では味わえない彫刻の良さも見られた。戦後の国内の彫刻の注目作品の初出の多くがこの空間から生まれたが我らの自由美術はこの空間の使用は出来ず、二階の絵画部の展示室に分散して置かれた。全体では第1室から第6室まで玄関を入って右側の展示室が使われた。絵画も彫刻も第1室、第2室はベテラン「或いは注目作家の展示室となっている。第3室、第4室は落ち着いた雰涸気の作家達、第5室には今後が期待される新人達、第6室は会員の森川氏安藤氏の他は新出品者等々。1963年自由美術総展示数721点これが私の展示ナンバーでもある。現役最年長の安藤士氏の展示番号は712。辛うじて拾われ展示された事が私の今につながっている。だから何時でも私は言う『公募展は作家の道場、お互いの切磋琢磨の場にしたい』。この美術館の建て替えが行なわれ、自由美術の彫刻部も絵画部と別の専用展示場を使う様になった。旧都美館の時代には絵画と彫刻の事務控え所は同じ場所で明るく広い場所が何枚かの衝立で囲まれていた。そしてお茶は勿論酒類は無くなることもなく茶碗の中身がお茶でないこともよくあった。気合いが入った体の若い時代で絵描きも彫刻家も顔見知りの多かった時代はもう帰らぬ遠い夢のようだ。酒飲みの陽ちゃん(水出陽平氏)はなぜかフラメンコを踊り出す、兄貴株の後輩思いの男前の西さんは言葉少なく理不尽なことをゆるさず、鶴岡さんは皮膚が骨に引っかかってこれ以上痩せられない様な体でも目は輝いでいた。建て替えられた美術館の正門広場に設置されている球体のステンレス彫刻は1985年に設置された、私の大先輩の彫刻家井上武吉氏(注4)の作品だ。清水先生の指導後、自由美術に参加したが早々に退会し、私の初出品の時にはもういなかったが後年武蔵野美術大学の指導教官室や都庁の作品設置の頃も交流は続いた。自由美術の5月展は1965年に初出品、これは(自由美術新人43人展)のタイトルで5月24日から30日、彫刻部は北村隆博、安丸行、池田宗弘、板津邦夫(退会)、島田忠恵(退会)の5名が展示。1966年第30回展に晴れて会員に推挙された。サーカスシリーズとネコのシリーズで制作点数は増えてゆき、1968年富樫一氏の御好意のおかげで今はない神田の(ときわ画廊)を紹介され初めての個展を開催し自分の独創的な作品の方向を確認できた。この人的つながりも公募展(自由美術)に参加してきたからだと感謝している。私が自由美術に参加して以来53年。多くの先輩と後輩が消え去っていった。その間にも新しい仲間も多くなったが話す間も無く去って行く。私は団体展とは日々己の美学、造形論を実作品で確認し公の場で他の専門作家の作品群の中に展示しその出来具合の良否やアトリエでは気づかなかった課題や諸問題を見つけだす為の勉強の場ではないかと思う。この理念の世界に身を置けば自由美術の会場は自分を権威付けたり、売り出す場ではないと気がつくだろう。昔の或種の親分子分的の空気による若い者いじめが感じられなくなった。峯孝氏の言葉に『自由美術に偉い人を作らないように…』

(注・1)
清水多嘉示がブールデルの教えをうけて1928年に帰国、最初に弟子入りしたのは京都の版画家の徳力富吉郎その次ぎが1933年・峯孝は東京美術学校を中退し清水に師事、学生時代の同級生には彫刻家の柳原義達。

(注・2)
佐野文夫は通称池袋パルテノンと言われていた、池袋の約1キロ西方の今の山手道りにそった一帯に建てられたアトリエ村に居を構えていた。峯孝のアトリエとは路地—つの所。峯孝は当時は要町のここは仕事だけの場にしていて自宅は椎名町の駅近くにあり西武線で帰宅していた。酔った佐野は乗ることもなく自転車を押して帰って行った。小熊秀雄のデッサンに長崎アトリエ村がみられる。

(注・3)
木内岬。1920年彫刻家木内克の。長男として生。1943年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)卒業、作風は力強く構築性のある作品の品性も悪くはなく、自由美術の後続の諸氏はかなりの影響を受けていた。当時会員の森川昭、赤荻賢司、鈴木徹、(三名共逝去)等々。ほどなく自由美術を退会。母校の教授として後進の指導に励み、現在会員として活動をしている作家の初期作品にはその作風に強い影響を見ることが出来た。

(注・4)
井上武吉、:1930年生。1955年武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)卒。1961年まで自由美術会員として鉄の昆虫を出品していた。国内外で活動。建築は池田20世紀美術館、彫刻の森美術館、都庁の彫刻等々。

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