鏡の中の自由美術

福 田  篤

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「浮漂」 福田 篤

芸術は飾りではない。敵に立ち向かうための武器なのだ――パブロ・ピカソ

1937年4月26日スペインのバスク地方の古都ゲルニカにフランコ将軍を支援するドイツ空軍は3時間余りにわたって無差別爆撃を行った。街は破壊され多くの人たちが死傷した。

パリでそれを知ったピカソはタテ3.5m、ヨコ7.8mの「ゲルニカ」を一か月余りで描き、パリ万博のスペイン館に展示した。ピカソは「ゲルニカ」を通し、戦争の名を借りたこの国家犯罪を世界に向かって告発したのである。作品はその後もさらに多くの人々に訴え続け、大きな告発の声となっていった。

一方日本においても、戦前のファシズムの時代、ヒューマニズムの立場に立ちつつ、普遍的な絵画制作を目指した作家たちがいた。それが自由美術の戦後の興隆期を生み出した新人画会を中心とした作家集団である。

自由と美術

では、歴史的背景および社会状況を鑑みつつ、戦後自由美術で活躍した作家達の活動とその背景を幅広く探ってみたい。従って自由美術に所属や出品をしなかった作家も多く取り上げることになる。

・植谷雄高:「日本の文学も絵画も同じだが外国の影響から先ず新しいものが出来るので現実の中から生まれたものではないんだ。変な近代性だよ。」

・椎名麟三:「自由美術は既成美術に反逆することから出発しているのでしょう。」

・鶴岡政男:「新しいほんとうのものを創ろうというところからです。」

・佐々木基一:「モダニズムの反省を一歩進めて自由美術はやっているとみています。」

・寺田透:「美術団体が沢山日本にはある・・・創作上の意見の相違ではなく感情の喰い違いで永い間に沢山の分派を生んだのでしょうね。」

これは自由美術が主催した対談の一部である。自由美術家協会が創立される頃日本の美術界がフランスを中心とする西欧美術の受け売り状態で創造性に欠けるという指摘がなされている。その指摘に対して自由美術の新しい真の創造的芸術表現を生み出すという抱負が読み取れる。

さて、自由美術が冠するこの「自由」という概念は西欧近代が生み出したものである。「自由とは」集団生活、社会生活においてのみ存在するものであるが、集団、社会においてであるがゆえに、各々が「自由」を確保することは一見矛盾する要素を含んでおり、高度なシステムを要するものでもある。

また、この「自由」という言葉が公募団体の「冠」であるということは意味深長でもある。審査する側における自由は審査される側にとって自由であり得るのか、それは疑問である。それにもかかわらず、「自由」の冠の元に創作の原点を見出そうと多勢が集まったのである。

そして自由美術家協会が創立された頃は日本の歴史上最も自由が奪われた時であったといってよいだろう。1931年には満州事変、軍による政治に対する圧迫は日増しに強まってゆく、そして1936年に二・二六事件・青年将校によるクーデター未遂事件、1937年に慮溝橋事件が発生、日中戦争が本格的に始まった。そして戦争の長期化により、深刻な状況は徐々に拡大していった。庶民は日常生活の大変さ以上に迫りくる死の影に怯え始め、精神的な不安感が社会に蔓延していった。ちょうどその頃に自由美術家協会が創立された。創立会員はすでにどなたも生存していないので、創立の経緯及び意義を探るべく歴史的背景および資料をたどってみる。

 

4年続いた第一次世界大戦は1918年に2千万人の犠牲者を出して終結した。そしてヴェルサイユ条約が調印され、名ばかりの国際協調主義を打ち出した。しかし実態はドイツに1,300億金マルクの賠償金を課したことで二次大戦の導火線が仕掛けられたといえる。

一方、戦勝国のフランス、イギリスは明るい戦後を迎え、フランスは名実共に世界の文化の中心となり、後期印象派からキュビスム、表現主義、抽象表現主義、とより表現における自由度を高めていった時期である。表現の自由はとりもなおさず個人の自由そのもので、個人の存在が国政に対し受け身でなくなりつつあることを示したのである。

こうした時期に日本からも多数の美術留学生が新しい芸術の吸収のためにフランスに滞在した。そうした中の数人の留学経験者が中心となって11名の会員20名の会友、そして注目すべきは13名の美術史、美学、評論家が顧問として参加して自由美術家協会をスタートさせた。

主な創立会員は長谷川三郎、山口薫、矢橋六郎、村井正誠、浜口陽三、瑛九等である。三回展までに難波田龍起、森芳雄、小野里利信(オノサトシノブ)等九名が会員となっている。

自由美術家協会が創立時めざしていたもの、それは作家と美術評論家の集合体として創立を準備したことから推して、新しい美術運動を企てたものと考えてよいだろう。規約草案と思われる文章では

「自由美術家協会は抽象主義的傾向の絵画を中心にして同時代の絵画芸術を創造しようとするものである」とし、ヨーロッパ、特にフランスを中心として発展し変化してきた印象主義からキュビスムそして抽象主義へと、より自由な表現方法に移行することによって、個人のオリジナリティーが重視され尊重される絵画表現に注目した。さらに深く探るならば、この時期ヨーロッパ社会において個人尊重主義と民主主義が確立され、この民主社会の花開くさまと芸術活動そのものが個人の精神の表現として輝きを放っていたモダニズムを日本の美術界にも受け入れるべきだと考えたのだろう。さらに魅力的であったのはヒューマニズムに裏打ちされた理知的な伸びやかさではなかったか。

自由美術家展とは何か

1937年の『みずゑ』「自由美術家展とは何か」の中で、植村鷹千代は自由美術家協会の組織は、現実の絵画界において、旧勢力の頑迷な抵抗と無理解のために、その成長と結合を拒まれている新時代絵画の人的集大成を目的として作られたものであるが、したがってその芸術論上の主張は新時代絵画精神の集大成を推し進めようとするにある、新しい絵画といえばふつう超現実主義と抽象主義が意味されているが、自由美術家協会は抽象主義的傾向の絵画を中心にして同時代の絵画芸術を創造しようとするものである、と書いている。このように日本画壇(作家、批評家)が抽象主義絵画に理解がないことを繰り返して書き、アブストラクトを理解しようとしなければならないと主張して自由美術家協会の創立の目的を説いている。

日本から山口薫や井上長三郎がパリに留学したごとく、1900年に美術修業にパリに出てきたレシェ、ピカソ、ブラックは後期印象派に憧れ、特にセザンヌを尊敬しその造形の継承者を宣言した。そして後期印象主義のセザンヌの造形の次の展開に挑戦したのである。この三人に限らずパリの作家たちはかつてない構築的構造的な平面抽象絵画への道を開いた。そのことにより文字通り近代絵画の誕生期を迎えたのである。

 

この時期のパリで見られた西欧古典絵画では色彩は明暗の段階に閉じ込められていた。近代絵画はそこから抜け出て、色彩独自でその美と感情を表現でき構造と部分との複雑な相関性の造形美は理知的で魅力的であった。日本の当時の美術界の閉塞から見ると極めて自由で魅力的であったろう。自由な造形である抽象芸術をめざした自由美術家協会は1937年第1回展から第5回で「自由」を掲げることができなくなり、終戦まで美術創作協会と改名し、1946年の再開(大阪で)まで活動は停止状態となった。

 

さらに、1940年にはドイツ軍のパリ占領、イタリアが仏英に宣戦布告、日本ではぜいたく禁止令、労働総同盟、社会大衆党政友会が解散となり、新劇では千田是也、滝沢修ら検挙、劇団は解散命令が出た。自由美術家協会は美術創作家協会に改称された。「自由」とは程遠いファシズムの台頭期であった。

同年、陸軍省は小磯、川端龍子、宮本三郎ら12名の画家を中国大陸に派遣し戦争画政策が始まる。海軍従軍美術倶楽部が結成、藤田嗣治、中村研一、石井柏亭、石川寅治等。

出版関係諸団体も解散され、「日本出版文化協会」が設立され、軍が用紙配給をにぎり、思想統制機構が構築された。知識人、言論人に対しては、矢内原忠雄、馬場恒吾、清沢冽等が執筆を禁じられ思想統制、言論弾圧が行われた。

国防国家と美術:松本俊介

1941年『みずゑ』1月号「国防国家と美術――画家は何をなすべきか」という評論家と陸軍情報部将校らの座談会で戦意を高揚する芸術でなければならない、と純粋芸術を批判した内容に対して、その後松本俊介が『みずゑ』4月号に「生きている画家」を投稿したことは有名である。「・・・芸術に於ける普遍妥当性の意味を、私達は今日ヒューマニティとして理解している。ヒューマニティは、国家民族性とともに表裏をつくり・・・如何に国家民族性を強いようともヒューマニティの裏づけがなかったならば、内包量の拡大は望まれない・・・これからの芸術家の仕事は新しい倫理の展開、人間精神の生成のために直接最大の役割を果たすものと信じている」と主張した。

これは後々の松本俊介像に大きな影響を及ぼし、体制側に反旗をひるがえした知性と勇気に富んだ画家像というものを形成した。

井上、靉光、糸園、寺田、麻生は1941年第2回美術文化協会展に、出品している。この展覧会の数週間前に代表の福沢一郎と瀧口修造が治安維持法違反の疑いで拘束され、そして8か月間拘留された。その影響もあり靉光の生物画の「雉」は官憲を刺激する可能性があるとして展示をめぐって賛否の議論が起きたことに対し、のちに井上は「お互いのおじ気も手伝いはなはだ不愉快だった」と語っていた。また軍に協力的な絵を描くときは特別に画材を受け取ることができた。井上は軍主催の決戦美術展に「漂流」を出品するので大本営に画材をもらいに行ったが、「敗戦的」だということで展覧会場から撤去されてしまったという。

ドイツではアウシュビッツでガス室での大量殺りくが始まる。日本では東条英機内閣となり、真珠湾攻撃へと進み第二次世界大戦が始まる。

1942年「文学界」近代の超克

1942年「文学界」が「近代の超克」というテーマで座談会を行った。出席者は小林秀雄、西谷啓治、亀井勝一郎、諸井三郎、林房雄、鈴木成高、三好達治、菊池正士、津村秀夫、下村寅太郎、中村光夫、吉満義彦、河上徹太郎など13人の超一級の知識人である。司会を務めた河上徹太郎は「結語」で次のようなことをいっている。

「此の会議が成功であったか否か私にはまだよく分からない、ただこれが開戦一年の間の知的戦慄のうちに作られたものであることは覆うべくもない事実である・・・我々の知的活動の真の原動力として働いていた日本人の血と、それを不様に体系づけてゐた西欧知性の相剋のために個人的にも割り切れないでいる。・・・」と心情を吐露している。

この座談会は大東亜戦争を「近代の超克」として捉え、欧米からアジアを解放する為に戦わなければと聖戦論を主張した。欧米近代に倣った日本が袋小路に入っているとも論じている。この座談会と内容については敗戦後問題とされた。

1943年新人画会の設立

戦時下の国家による統制が強まり世間はあわただしく日本が破局へと突き進む状況の中で美術団体展の活動も統制される頃、新人画会が結成された(この新人画会のメンバーこそが戦後自由美術家協会会員として戦後美術を代表する作品を創りだしていくことになる)。新人画会創立の趣旨や声明文等は出されなかったようである。8人の画家が個々別々に質問に答えた内容から憶測するしかない。

明日をもしれぬ状態の中で展覧会を催したことは表現者としてはきわめて英雄的な行為であった。一流の言論人が集まって「近代の超克」を論じる時代に純粋絵画で8名が作品を展示したことは大いに称賛に値する行為であるが、誰もその経緯について語っていない。井上長三郎、麻生三郎、糸園和三郎の3人の方々とはずいぶん接する機会があったが、新人画会に関する話題が出たことは記憶にない。この8人の結びつきはよほど強く思想信条も近かったのだろう。官憲の目が厳しい上、東京で暮らすこと自体に危うさを感じる環境においての結集だったからである。

この1943年自由美術家協会の「自由」の名を外した展覧会が3月に開催された。そして同じ年の1か月後に8名の新進気鋭の画家によって「新人画会」が結成されて4月に銀座の日本楽器のギャラリーにおいて第一回展覧が催された。

メンバーは靉光36歳、麻生三郎30歳、糸園和三郎32歳、井上長三郎37歳、大野五郎33歳、鶴岡政男36歳、寺田政明31歳、松本俊介31歳の8名である。この年の4月には山本五十六が戦死、日本軍はガダルカナルやキスカ島で連合軍に敗れ撤退を始めていた。美術界では9月に「国民総力決戦美術展」という末期的表題の展覧会が東京都美術館で開催された。これは本土に対する総攻撃が近いことを予想させるものであったろう。この月、イタリアはすでに無条件降伏し、日本では学徒出陣が始まり兵役の引き下げと延長が同時に行われ、翌年には17歳の少年が特別攻撃隊として片道の燃料でとび立っていった。そして大都市には疎開命令が発令された。

戦争はいきなり始まったのではなく戦争を必然とする状況の継続の中でその度合いを深め計画的に戦争に至ったのである。したがって戦争の混乱の前に表現の世界では見え隠れしながら強権政治は強まっていった。

赤紙が来れば、戦死が迫る。家に残っても生き続けるのが困難な時、画家を貫こうとすれば絵具が手に入らない。大野五郎は後に「どうせ死ぬなら描きながら死にたいと思ったのだろうか、抜け道を失った日本の中で、“画家としての誇りを少しでも持続させたかった。”鶴岡や靉光は軍隊に行き、自分にも麻生にも召集がきて、互いに寂しい送別をかわした」と語っている。新人画会の戦時下の創立について麻生三郎、鶴岡政男は「当たり前のことをやったにすぎなかった」「人間としての最小限の自己主張をすることだった」と同様の回想を語っている。あの最悪の状況下で前向きで意欲的な作品を発表することによって、戦後の美術界で活躍する知性的、芸術的エネルギーが内側に増殖していったことがわかる。

井上長三郎が靉光を訪ねた回想に

「・・・ぬれ縁からあがると六畳か、四畳半の部屋で、当時のモダン絵画であるビッシェールばりの絵を何枚か見たが周囲の赤くやけた唐紙や畳の行燈のような薄暗い電燈とはいかにも不似合いにおもえた。彼はこの様なところでフランス近代絵画を夢みたのである」と語っている。最悪の状況下でも若い才能が世界の近代的ヒューマニズムに呼応し、伸びやかな芸術性を感じとっていたのである。

鶴岡政男は戦前戦後にかけて美術、文学、演劇、言論界に広く知己をもち、幅広い活動を行っていた行動的な画家である文化人であった。出品団体は数多いがNOVAの結成時に「私達は政治的思想を主調とする従来のプロレタリア芸術に対して絵画芸術の造形的純粋性を説き後期印象派等の解釈されたものに満足せず、シュールレアリズムのごとく現実を回避するものでもない」と宣言している。

NOVAは7回展で終えた。特高の干渉が強くなったので解散したという。鶴岡はこの年に騎兵として中国大陸に送られた。彼の隊は全滅したが、彼は直前に馬が故障し隊を離れ一人生き残った。また銃殺刑の銃手を命じられた、その時の話は本人が語ったとみえ、知られた話である。

同僚の全滅や銃手を命じられたことは精神的に深いキズとして残り、戦後の作品や生き方に大きく反映したのだろうと思われる。こうした逃れようのない極限状態の体験はこの時代を生きた人達の共通体験として戦後の様々な表現や文化活動の底流をなしていると考える。その流れのひとつが自由美術家協会の戦後の活動であったのだ。

日本人にとっての戦争、日本兵にとっての戦争は嵐の様に空から爆弾が降ってきて焼かれること、食料なく乏しく、飢えに苦しみながら死ぬこと、そして民間人を合わせて300万人が死亡したのが日本にとっての戦争だった。新人画会のメンバーの何人かは召集された。靉光は栄養不足と病により戦争終結後の1946年上海で死亡した。松本俊介は1948年6月戦争直後の悪条件の中で近代芸術運動を幅広く展開するために大変ハードな活動を続け、体力を失って病死してしまった。戦後の日本の美術界の立て直しに高い理想をもって頑張っていたことは当時の文化人の心に深く残った。戦い半ばの死であったと受け止められた。

戦争からの帰還

1945年5月8日ドイツ降伏、7月ポツダム宣言、「日本に降伏を呼びかけるが日本は黙殺、8月15日無条件降伏。

さて、戦略と客観性に欠けた戦争は急に始まったわけではない。長い準備の末に計画通りに実行されたのである。兵達は片道の飛行機で飛び立ったり、食料もほとんど持たずにジャングルの奥に進軍させられたりする戦争が企画されたのであった。

戦後「免罪と人権」展を中原佑介、野間宏、針生一郎等が企画した。そのシンポジウムで山下菊二氏が「免罪の人が帰ってくると新聞に『死刑台からの生還』なんてすごく爽やかな言葉になりますが死からの生還がどういうことかと自分に思うと戦争中に戦地から満期で帰れたときにそれ迄で一番嬉しかった。100%死ぬ人・・・」と語っている。

一方で、戦地からの帰国を喜びながらも不思議な感慨を記した人もいる。シベリア抑留の香月泰男である。「・・・シベリアの索漠たる風景を見慣れた目に故国の新緑は痛い程あざやかだった。ゆれるタラップを踏みしめ港に集まる人々を見た時ふと自分が亡霊のように思えた。自分の前の男も自分の後の男も亡霊のような気がした。なぜだろうか、自分が亡霊というより背中に霊を背負っている感じだったかも知れない・・・」氏はなぜそう感じたかについて書いている。

「セーヤ収容所では栄養失調と過労から死者が続出した。収容所の林に小鳥がやってきて目白のような声で鳴いた。その声は

“ジフトリーヤ”と聞こえた。それはロシア語で『病人』の意味である。この可憐な姿の“死の予言者”の歌に合わせるかの様に毎日戦友が死んでいった。体の栄養も精も根も使い果たした者の死は静かだった。・・・戦友の霊は仲間に別離を告げながら故郷の空へととび去る。あとに残った者には先も知れぬ苦しみが続く・・・」

特筆すべきは、日本の兵は外からの攻撃のみでなく、軍内の残酷で野蛮な苦しみもあった。浜田知明の「初年兵哀歌」(自由美術展出品作。氏は20代のほとんどを軍隊で過ごした)。作品は日本人に多くの共感を得たのみでなく、国際版画ビエンナーレにおいてフランス政府より芸術文化勲章を受けた。

8月15日無条件降伏直後、内務省は占領軍が上陸する前に「占領軍兵士向けの性的慰安所を計画、8月26日特殊慰安施設協会が設立される。東京30か所、全国で7万人の女性がこの任務に従事した。

9月26日治安維持法違反で逮捕されていた三木清が獄中で栄養不足で餓死した。この死について告発したのはアメリカ人ジャーナリストであった。マッカーサーは戦前の政治犯の釈放、思想警察の全廃、特高警察官罷免を指示した。内閣はそれを不可能として政権を投げ出した。財閥解体は不徹底に終わったが、農地開放は二度行い、90%は自作地となった。広い土地を所有したわけではなかったが、農家は地主となったことから保守に傾き自由民主党の支持母体となった。GHQの思惑通りとなったわけである。そして1947年当時賃金は戦前の28倍になった。しかし物価はなんと65倍に上がった。占領初期はニューディーラーを中心とする民政局が民主主義国への転換を企画したが、すぐにソ連、中共に対抗する軍略が中心となり、参謀第二部に移行した。その過程において三大謀略事件、下山、三鷹、松川の三事件が発生、そして昭電疑獄事件が発覚しGHQの実力者ケースディ(民政局)が失脚し、ウィロビー(参謀第二部)が実権を握った。参謀第二部とは諜報機関であり、民政局とは比較にならない力をもつ国家の謀略を専門とする機関である。

参謀第二部が支配するようになり、労働争議、米軍基地闘争、平和主義政策から反共防波堤として日本を利用する計画が実行され、日本国民とぶつかる場面が増えた半面、朝鮮戦争が日本の景気を押し上げ、その後の経済発展の糸口となった。

 

戦争批判、労働紛争、生活苦と非人道を背景として、新人画会のメンバーは自由美術家協会に合流した、戦時中の新人画会の表現者としての強い信念と、ヒューマニズムを追求する作家集団は戦後の「自由」にふさわしい活躍を始め、戦後の美術運動の核となったのである。

鶴岡政男の「重い手」をはじめ、麻生、糸園、靉光、松本俊介、井上長三郎と人間に深く切り込んだ戦後の日本美術の精鋭達と呼ぶに相応しいのである。当時のそうした戦後の混迷する社会背景から生まれた新たな表現がルポルタージュ絵画である。社会の問題性を鋭く告発する方式は、国内では丸木位里、池田龍雄、曹良奎、中野淳、山下菊二、中本達也、中村宏などが挙げられる。自由美術展の会場で発表され注目された作品も少なくないのである。

戦後自由美術が果たした創作活動こそが「自由」の名に値するのだと思う。

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