自由美術の絵
平 澤 重 信
15年位前自由美術展を友人三人と観ながら絵について話したことがあった
じっくりと作品を観た。
絵をたのしんでいた。
絵を描かない友人が「自由美術には判りにくい作品が数多くあるね」と言った。
ああでもないこうでもないとイロイロと言い並べたてていた。
・・・そうか。そんな風にもみえるんだ
・・・なるほど、そうか。
他人(ひと)の見方をききながら何かにこだわりを持って、生きている人は面白いなと感じた。
そんな時、 傍を通過していく御婦人の二人ずれの、「この会は“ひどい絵”がならんでいるわね」というコトバが耳にひびいた。
わたしは、その時自分自身に、表層的な描写だけではなく精神的な深さに重きを置いた作品に巧拙は関係ないんだよねとささやいた。
「それって当たり前の事だよ」と友人が言った。
上面だけの要領よくまとめるコツを覚えるよりもずっと先へつながる技を会得すべきだ。
“ひどい絵”はないでしょう。
その絵、ほ・ん・と・う・は“ひどい絵”じゃないかもよ。
絵を見ることのできる人を増やさないとね。
具象、抽象、素材が何であれ、描きたい絵を描きたいように描く。
いけないことは何も無い。
心の思うままに、情熱や欲望をぶつけた表現には無限の可能性がある。
人がかかえている弱さや矛盾を意識して“ひどい絵”(想像力が生まれる)を描いて、見えない壁を突破したい。
そこに自由美術があれば・・・・・。