自由美術展に出品して

藤 本 忠 彦

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「生贄のesquisse」        藤本忠彦

自由美術展に出品し始めて60余年の歳月が流れた。よくもまあ出品し続けられたものだと、つくづく思う。

出品のきっかけは、大変単純である。今にして思えば、無謀といおうか、若気の至りといおうか、友人の「俺、自由美術に出してみようと思うんや」の一言だった。結局、その友人は出品するのをやめたので私一人が出品したという次第で・・・。大学4年生の夏のことだった。

結果は見事の落選だった。

翌春、当時大変「せまき門」だった中学校の美術の教師になんとかなることが出来た私だった。美術の教師が絵を描くのは当然だろう、生徒に絵を描く姿を見せるのもいいだろう。と、夏休みを利用して制作し再度、自由美術に挑戦したのだった。自由美術がどんな美術団体でどんな画家がいるのかなど全くの無知で、とにかく去年落選したんだから今年こそ、といった単なる負けん気だけで出品したのだった。その翌年も・・・。こうして出品し始めて4回目だったか5回目だったかでやっと、とってもらえたような訳だった。1958年・第22回展のことである。

巡回展で、美術館の第1室に並べてもらって大変晴れがましくも嬉しかった記憶がある。

山を題材にしてやや抽象化したもので、構図とマチエールに苦心した覚えがある。

新米教師の当時は月給は安く、その上2回に分けて支給されていて、下宿代と食費を差し引くといくらも残らず、とにかく画材を買い、絵にして東京へ出品するのがせい一杯で、入選した自分の作品を見に東京まで出かける余裕は全く無かった。

そのうち、京都支部の会合にも顔を出すようになり、竹中三郎、新見孝らの先輩諸氏がそれぞれに自分の制作上の考えを持って作品に向き合っているということなども知るようになる。

秋の公募展、それの延長としての巡回展だけでは物足りない、もっと作品発表の場を持とうという気運の中で「京都支部」としての作品発表の場として「京都作家展」が始まったのがこの頃である。京都の街のど真ん中四条通りの河原町を少し西に京都府のギャラリーがあり、それが会場だった。この「京都作家展」は、会場は転々としながらも、その後ズーッと続いて今日に至っており、京都支部の仲間の作品発表と切磋琢磨の場となっている。

更にその数年後、1962年には「自由美術連合展」と銘打って関西を中心とした自由美術出品者の合同の発表の場を持とうということになり、京都市美術館を会場にすることになった。この展覧会も「「自由美術関西展」として名称は変わったけれども、現在まで続いている。

東京での「自由美術展」を観ていない私には全くもって「目からうろこ」の出来事であった。京都という狭い視野から「関西」という広い作家集団の実態に直面したわけだから。連合展には関東の自由美術出品者による作家集団の参加もあったりして大変熱のある展覧会となっていた。これらの作家たちの話の中から、そして作品から多くを学び、私の自由美術に対する認識がすこしずつ深まっていったように思う。

新米教師の私であったが、当時は教員組合に入るのが当然の時代であった。私もよく組合の会合や、デモに参加したものだった。反「破防法」のデモでは警察官隊に追われて京都駅まで逃げた記憶もある。「血のメーデー」の事件のあったのもこの頃のことである。占領軍の指令で誕生した「警察予備隊」が「保安隊」となりさらに「自衛隊」にと改組されようとした時期でもあった。公害の走りである「ヒソミルク事件」が起き、続いて様々なかたちの「公害」が発現することとなる。国外では「ベトナム戦」が長期化していた。

こうした社会のありようは私の作品にも徐々に影響し始めていた。社会的動物である人間のありようとその人が営む作品とが無関係であるはずが無い。ドラクロアやドーミエに惹かれるし、シケイロスやベン・シャーンにも魅せられる。そして、靉光とその流れを汲むであろう広島の灰谷さんの作品に共感していた私である。「山」や「工場」などを対象とした表現の中に「ひと」が入る込むようになる。ベトナム戦をテーマにした「あらし」が「佳作賞」に選ばれたのもこの時期であった。1966年・第30回展の時である。これに先立って、1964年、自由美術は会員審査に対しての意見の違いもあってか分裂することとなる。

こうして、袂を分けた主体美術が誕生したわけだが、このことで自由美術の性格がより明瞭に焙りだされることになったように思う。京都支部でもこのあおりを受け、主体のほうに移った者もいて、支部のメンバーもかなり少なくなり存続も危ぶまれた。が反面、自由美術に残った者の意識も改めて鮮明になったのではないだろうか。

こうした事情もあってか、お情けでか、二度目の「佳作賞」と共に翌年、会員に推挙される。1977年・第41回展の時のことである。初入選以来約20年も経過していた。こうして、会員になったのではあるが、会員としての責任というか自覚というか。私の中の何かが芽生え、動き始めたような副作用も働いたようであった。

政治や社会のありようの中で破壊されていく人間そのものの現実に対する「疑問」や「憤り」を画面の中にどう取り入れていくかが私の制作課題となっていった。「蝕」や「いけにえ」という今に続くテーマを追うことになる。

今、この時点でも、我々は試験管の中に放り込まれていて、どう反応するかと試されているのではないかと思うような、様々な出来事に遭遇している。

宗教的理念の対立に由来するのだろうか、世界の各地に広がるテロの噴出。内戦に伴う多数の難民とそれへの対応の問題。 身近なところでは親による子供への虐待。 高齢者の増加に関わる介護その他の諸問題。病気や居眠りによるのか、暴走する自動車。 保育所が無く途方にくれる親。 津波とそれに伴う「原発事故」の未解決、未処理の現状。日本の近海ではまもなく大きい地響きが聞こえて来そうな気配、にもかかわらず粛々と進められている原発の再稼動・・・。一極集中の米軍基地。 着々としかも音も無く忍び寄る戦争の足音。さらに・・・・・・。

こうした、社会の「今」に対して、ただ単に「私は絵を描いています」でいいのだろうかと自問する昨今である

そして、今年も「京都作家展」が府立文化芸術会館で開かれた。京都での今年最初の発表の場である。さて、どんな作品が並ぶのか。浜田夏子さんや福田 篤さんのベテランの転入に加え、若い人たちの出品も増えて、活況を帯びてきた昨今である。大いに期待していい。

私は「イキテヰルモノタチ、今」をテーマにこの劣悪な環境の中でのたうつ「ひと」を含む「イキモノタチ」がそれでもなお起き上がろうともがく現実を絵にできないかと80号にぶっつけてみた。

折りしも、賀茂川河畔では桜が満開である。

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