現在・過去・未来・・・

足 立 龍 男

09.jpg「灯 a light」 足立龍男

東京から名古屋に移り住んで46年経った。1952年戦後生まれの私にとって物心ついた頃の東京での暮らしは三鷹にある国鉄の長屋寮、野原と畑、バラセンに囲まれた広大な敷地の中、巨大な倉庫のような建物のある、あれは戦闘機の製造工場だったか・・・。目の前には結核患者の隔離施設が点在した不気昧な病院が在ってその周りにも又バラセンが。その異空間の魅力には抗えず日々敷地の中へ探索に・・・。私の中の戦後風景。

美術界は1945年以降戦後の混乱期の中、様々な既成団体復活の動きがあった。民主主義美術を謳って1946年に結成された日本美術会が第1回アンデパンダン展を開催。翌1947年無審査を建前として民主化運動を起こし推進しようとした。各会の絵画上の主義主張を示す特別な場であったようだが、抽象、フォープ、シュルレアリズム等幅広い表現方法を内包しヒューマニズムを掲げた自由美術はイデオロギー色の強さでは他の会とは一線を画した特異な存在として認知されていたと思う。心同じくする多<の作家の参集がそれを証明している。自分が自由美術に引き込まれた要因も、言うまでもなくその頃の自由美術の先達が残した、歴史に残る、数々の作品、その魅力に取り憑かれたからである。

今日を迎えるまで多<の美術運動や価値観、美意識の転換を繰り返し進化してきたが、近年中国の美術市場で日本人作家の尋常ではない評価や、その制作に対する考え方、手法が、紹介され騒がれたりもして情報化社会の中、嫌でも耳に入ってくる。国や時代、文化そして経済の壁の溶けた時代の潮流は狭い日本ではどうあっても避けられない。自由美術であっても次の世代に引き継ぐ浄化作用を繰り返し進化を続けることが出来なければ飲み込まれ消滅してしまうだろう。先達の貴重で偉大な教えを基にプライドだけを以て押し進めても、表現手法や価値観の変容を受け入れることが出来なければ若い作家の参入は得られないだろう。高齢化と共に良き描き手か消えていく。寂しく、悲しい。会全体の空洞化が進んでいる。戦後、表現する事に飢え、表現する事が必然としてあって、表現する事に純粋に価値を見いだそうとしていた熱気ある時代の価値観は今は見あたらない。

今、愛知ではトリエンナーレ開催がかまびすしい。美術、音楽のみならず写真、演劇、環境芸術などを含んだ総合文化事業だ。膨大な予算を付け3年ごとに開催予定の街興しだ。いみじくも私に向かって“画なんか描いている時代じゃないんだよ”と言い放ったアートクリエイターと称する作家達の元気が良い。表現もコンピューターや科学技術を用いた、境目の無いボーダレスの世界だ。発表の場も美術館やホールのみならず昔の地場産業が寂れ、今は空き家となった小さなビルや倉庫がその主戦場であり街全体がパフォーマンスの舞台だ。時代は違えど何かに挑戦しようとする夢追い人は既成概念を否定し時代をリードする。

ともあれ、公募展は戦後の美術界を引っ張って来た原動力であり、発表の場に飢えた作家の受け皿となって、絵画上の問題のみならず社会問題を提起して来た。それぞれの団体に主義主張があってメディアが取り上げ、広く大衆にアピールするための媒体であった。しかし今はネット社会の中で個の情報は簡単に得られ拡散する。ネットの中で作品を発表し評価され売買が行われる。時代はあまりにも早く流れ変化している。若者が公募から離れ個々に発表の場を求めチャンスを得ようとする大きな理由でもある。私は作品は継続した思考と感性の中から個が生み出すものと考えるが、今は全てには当てはまらない。主義主張が薄れ存在の意味が見いだせなくなった公募展の役割とはなんなのか今一度考えてみる必要がある。