封印された記憶・途上にて

よろず ふきこ

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「封印された記憶− 109 −」 よろずふきこ

1996年冬。そのように思える風景に出会ってしまった。40歳代~50歳代にかけて、アジアを旅しインドに熱中していた昭和の時代があり、その中で藤原新也のエッセイや写真集を貪るように読んでいた。「全東洋街道」「インド放浪」「チベット放浪」「逍遥游紀」「インド拾年」「メメント・モリー死を想えー」などなど。その中の写真集「メメント・モリ」の1ページに「こんな所で死にたいと思わせる風景が一瞬目の前を過ぎることがある。」と1枚の写真にコメントされていた。「メメント・モリ」とはペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語であるが、その写真は穏やかな農村風景だった。空と砂の他何も無い広大な砂漠、熱帯の植物に絡み付かれ破壊され尽くされた遺跡、荒あらしい風景の中を旅した後に辿り着いたミャンマーのパガンで丘の上にあるシュエサンドー寺院から眺めた光景にまさに同じ思いを感じた。

地平線の彼方、見渡す限り視界一面に立ち並ぶ仏塔が夕陽に映えて一瞬極楽浄土を感じ、東洋人の心を自分自身の中に認識した。今にも朽ち果てようとする千塔、万塔の仏塔群は暖かな柔らかい光に包まれていた。立ち去り難く茫然と眺めていると極楽浄土と言う未知の世界が存在するとしたなら、このような暖かく柔らかな光に全身を包まれ、たゆたって居られるのだろうかと想像した。以来私の心の奥深くに「光」が大きなテーマとなり、観た世界、感じた世界を黄金色で表現している。

通り過ぎた過去の記憶ー風景、場所、出来事、人々ー。それは再び戻って来ない出会いや出来事の集積。私の人生そのもので作家としての殆どの部分を自由美術が占めている。

1961年秋、美大生だった頃、京都市美術館に巡回して来た「自由美術展」で観た麻生三郎作品に魅せられ初出品、入選したのが始まりだった。当時、京都に住んでいたので京都事務所にお世話になった。毎月1回、京都大学近くの八木古書店の部屋をお借りして作品を持ち寄り合評会があった。先輩の皆さんから厳しい批評があり、制作の技術的な事のみならず、発想の段階から人間としての思想に至るまで大切な事を教えて頂いた。20代から30代にかけての幸せだった時代、あの頃に作家としての自覚が芽生え制作の原点となっている。

大阪に転居して大阪事務所のお世話になり始めた30代後半、大阪には長老から先輩、私のような若輩まで大勢のメンバーが居られて活発に活動されていた。隣の都市でありながら京都とは異なった自由な雰囲気が漂っていて解放された気分を味わった記憶がある。

大阪で40年近くも在籍していると、すっかり古株になり会計や「自由美術関西」の冊子編集を任されるようになった。冊子の編集は2008年~2015年まで8年間続いた。最初は吉見敏治氏のアシスタント的な役回りから、編集など一度もした経験の無い私にいろいろ教えて頂き勉強させて頂いた。「自由美術関西」を通じて関西展に出品されているメンバーの活動を発信。冊子を通して関西のメンバーのみならず、首都圏、地方の仲間の方々との交流が生まれ友情を深めることが出来たのは大きな財産だと思っている。

現在 現代美術系グループの「互次元」や「姫路城現代美術ビエンナーレ」の作家の皆さんとも交流し、国内、海外、のグループ展に参加して活動の場を広げているが自由美術が私のホームグランドと思っている。

制作、発表を続けていくには年齢的な限界もあるが「これが私の作品!!」と言える最高の1点が完成出来るように精進していきたいと思っている。