絵とともに・・・80才を過ぎて思うこと・・・

十 時   良

18.jpg
「空の叫び」            十時 良

「日本の洋画の不幸は、フランス派を主流として展開したためである」と、評論家の海野弘氏が、昔の美術手帖(具象絵画の現代)に書いているのを読んだ。

フランスで勉強した人達が日本の洋画の基礎を作ったことは事実。彼らは「いかに描くか」といったフランス風の絵両理論で、技法を中心に感性や絵の方程式を、目本の洋画として開拓発展してきたのである。ジャンルや流派が生まれ、歴史になった。

しかし、表現上のことよりも、描く以前の動機とでもいう「なにを描くか」といったことに、関心をもった人達もいたのである。

海野弘氏はアメリカ派といっているが、彼らはフランス派のスタイルや技術だけに影響されることなく、描くことの意味や人間の生き方、描かれる内容に重きを置いた。国吉康雄や麻生三郎などはその代表であろうか。

好き嫌いは別にして、現実や生活を絵づくりの根底にした人間的な表現には共感する。

不幸を嘆いた海野弘氏が言うように「フランス派」の「いかに描くか」「どのように描くか」が主流でなく、「なにを描くか」といった人間臭さが主流だったら、現代の日本の絵も違った発展をしていたのではないか…。

「洋画の不幸」など考えたこともなかったので大変に興味をもって読んだ記憶がある。

アートの価値がゆらいでいる感がある。昨今の現代絵画のなんでもありの状況の中で美術の原点が見えない…私だけが感じるのか。

「いかに描くか」といった表現過剰主義や、自分の世界だけの自閉的な表現が目についてしかたがない。時代や科学の発展に伴う成熟した社会現象だという人もいる。社会が進歩すると人間は自閉的になるのだろうか…。

美術史上でも表現やスタイルを問題にし過ぎて、そこには描かれた人間の生き方や、描かれたものの内容、意味は、美術史の外に置かれている。

創る行為は「作者の言いたいこと」が原点である。何を発言したいのか、なにをつくりたいのか…発想時の意志が見えにくい。

感覚に偏ったものが多く、アートが無言化したとも言われる。(自分の作品はどうかと言われれば、なにも言えないが…)

「言いたいこと」を考えると、メッセージ性や絵画性のことが話題になるが、むしろ今の絵はメッセージが少な過ぎるのではないか…

観念化されない、「言いたい」メッセージがもっと自由で個性的に見えていい。

人間的かどうかは別にして、戦後アメリカで生まれた抽象表現主義の作品には人間の匂いが強かった。

奔放に流動する筆触(タッチ)で、絵具の滴りや混沌とした空間をどろどろとした内面としてぶちまけ、衝動の姿を抽象化した。

いまだにその流れを見せている表現も多い。

しかし、難解でエリート意識が強く、大衆から離れていったと言われる。ポップやアクションも加わって、表現はなんでもありの21世紀を迎えてしまった感がある。人間の内面にせまる「なにを描くか」の考え方も混沌とした状況の中で展望が見えないようだ。

私は57年前に自由美術の会員になった。

82才になった今だから「いまの絵」に不満を感じるのである。老化現象かもしれない。(自分の作品も含めて…)

自由美術は作品中心の会で、組織も大変に民主的であった。今も変わっていない。

若い頃は公募展全盛の時代で、描く意識や目指すものに迷いはなく、絵の世界に心から燃えた。自由美術は生きがいであり、心の広がる世界であった。今さら気にすることもないのだが、団体展はこれからも続くのだろう。

しかし、公募展や団体展の時代は終わったように思えてならない…。 (2016年5月・ととき)

▲TOP