団体展賛歌

竹 下   馨

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「あの日から70 年」竹下 馨

私は1967年に自由美術の会員にして戴いて今年で49年、来年は50年になります。そして今年は85歳になりました。

私は郵政省(今はゆうちょ銀行)の公務員でした。従って、生活はもっぱらその給料に頼り、退職してからもその共済年金で暮らしているのです。

会員にして戴いてから以後、都美術館や国立新美術館で、有名な先生方と一緒に絵を飾って戴いて本当に幸せでした。

地方では、長野県美術展、北信美術展に作品を発表して来ました。長野県展では二回受賞して審査員になり、県展の運営にも関わって来ました。

その他、一般の公募美術展では、上野の森美術館大賞展、日・仏・現代美術展(日本テレビ主催)、文化庁全国県展選抜展や、日・仏・中・現代美術世界展(中国天津美術大学百周年記念展)その他に出品して来ました。その間、中国展では最高賞を、パリでは小さい展覧会で二回賞をもらいました。

私達の年代の青春時代は、戦後の混乱時代で、アメリカを始めとして、フランスやイタリアなどのジャズやシャンソン、ファッションなどが洪水のように流れ込んで来ました。私はフランス映画やシャンソンが好きになり、行きついた先はパリへの憧れでした。

公務員を続けながら絵を描いているうちに、いつの間にか50歳を過ぎていました。どうやらこの辺りが一区切りと思い、54歳の時に退職して翌年二月にパリに行きました。

生活費は退職後に支給された共済年金で充分間に合いました。

パリへ来たからには、五年間は滞在しようと決めていたのですが、一人暮らしの無理がたたって体調をくずし、二年間でひとまず帰国して来ました。でもとこの二年間は本当に楽しかった。パリ一九区のベルビルの安ホテルに居をかまえ、モンパルナスのババンにある「アカデミー・グランド・ショミエール」に通ってデッサンを学びました。アカデミーには日本人もいましたので日常生活に不自由は感じませんでした。滞在中に「ル・サロン」や、「サロン・ドートンヌ」に出品したり、個展も四回開きました。そして、パリは勿論、フランス国内をはじめ近隣諸国の有名美術館や有名画家のアトリエなどを見て廻りました。

帰国してからもパリ病は直らず、結局、57歳から70歳台後半までの二十年間毎年のようにパリに出かけました。持病があっても一ケ月以上の旅行は無理というのを振り切って、その後六ケ月滞在を二回したこともありました。

その間にも自由展に出品をつづけ、東京、パリ、長野で個展をしたり、友人と二人展、三人展をして来ました。パリでは、二年間滞在中の三回の個展を除いて、「エスパース・ジャポン」で三回、パリ唯一の日本語の本屋「ジュンク堂」の二階のギャルリで一回(ジュンク堂は最初サントノーレ通りにあった)個展をしました。2014年には画集を出版しました。

話題を変えて、私が絵を描き初めてから、1980年代末までには日本画壇ではいろいろな変動がありました。

日本画壇に衝撃的な変動を与えたフランスのアンフォルメルが来たのは1956年で、つづく57年には本家本元のミシェル・タピエが「シニファイド・ランフォルメル」をひきいて来日し、銀座の白木屋で新聞社の力を借りて大々的に展覧会を開催しました。衝撃を受けたのは画家ばかりではなく、戦後の日本の美術批評の第一人者の瀧口修三さんや土方定一さんも「従来の批評の尺度では対応できなくなった」として批評の筆をおいたといいます。

以後、日本国内では、新しい芸術運動が雨後の竹の子の如くに生まれて1970年代の中頃まで続きました。曰く、「反芸術」「具体」「ハイレッド・センター」「もの派」「美共闘」などなど、今でも私などにはチンプン・カンプンの芸術活動が続いたのです。

日本国外ではどうでしょう。1960年前後には「ネオ・ダダ」「ヌーヴォ・レアリズム」60年代には「ポップアート」「ミニマルアート」「コンセプチュアル・アート」と続き、1980年代初頭には「パフォーマンス・アート」、そして運命の「ニュー・ペインティング」に行き着いたのです

2016年の五月になって廃刊となった「美術手帖」の1984年二月号に「ニュー・ベインテング現象」についての特集が載っています。この中の谷川晃一さんの文章が面白い。

「ちなみに70年代のコンテキスト主義美術が言語的論理を駆使する批評家にとって、彼等の表現の黄金時代であったとすれば、ニュー、ウエーヴ台頭の今日は彼等にとっては受難、アーチストにとっては解放の時代といえる。」と書いています。

同じ雑誌の中で、編集者のインタビュウに応じている中原佑介さんは「描くということ自体に対する考え方が、ちょっと違ってきているんじゃないか。−非常に落書き風になってきている。もう正直に言うと、これがいい絵で、これが悪い絵であるという判断力を私は失いましたね(笑)」。と言っています。

この頃を期に、石の餅を喰わされているような固くて噛めない多くの美術に関する文章は、次第に姿を消してゆきました。

昔、(1960年代だろうか?)団体展無用論や、団体展の時代は終わったなどという言い方が流行った時代がありました。井上長三郎先生がその頃の文章で、「志しを同じくする絵描きが、自分の費用を出し合って開く展覧会に無用などと言うのは余計なことだ」という意味のことを書いておられたのが記憶に残っています。

美術家連盟で出しているニュース、No.456号は「今、美術は生き残れるのか」という座談会をやっています。その中で、団体展の功罪についていろいろ話し合っていますが、向かう方向としては団体展の存在を支持する発言が多いと思います。美術作品のない美術館、美術作品のない美術評論、美術作品のないキューレイタなど存在しません。国立新美術館は自館の為に美術作品は購入しないのだそうですが、それは団体展などにも美術館の空間を提供するためだそうですね。

日本にいくつの美術団体があるのか知りませんが、全国に結集して東京の諸美術館の壁面に自作を発表している何十万人という有名無名の絵描きがいなくなったら、全国に400ぐらいあると言う国公立の美術館や、美術関係者はどうなるのでしょう。まさか、美術館は、年中年がら、「印象派」や、「エコール・ド・パリ」、アメリカのコンテンポラリー絵画や、国内外の古典美術品などを陳列すればいいと言う訳にはいかないでしょう。画廊や美術出版なども例外ではないでしょう。美穂術団体はいい作家を大勢仲間にして、ますます活躍の拡大をはかり、静かに、しぶとく生き抜いていきましょう。

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