太田正明さんを偲ぶ

田中秀樹

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初めて太田さんの作品を見た時の印象を今でもはっきりと憶えている。透明感のある強い色彩と絶妙に絡み合う独特なフォルム。色彩とフォルムが実にマッチして輝くような美しさを放っていた。作品を前にして自然とその世界に引き込まれていった。自分のそれとは明らかに違う世界であったが、率直に面白いと思った。

太田さんが同じ大学の先輩であると知ったのはそれからしばらくしてのことである。大学の先輩と知って親近感も湧き、毎年自由美術展の本展で作品を見ることが楽しみになった。

私の知る限り、太田さんはその作風が大きく変わるということはなかったように思う。ご本人なりの強いイメージがあったのであろう。ただいつ頃のことであったか、色彩がやや鈍く感じられた時期があった。わずかではあるがそれまでの透明なスッキリとした色合いではなく、おそらく絵具を重ねることで生まれた濁りのようなものが感じられた。絵の具のつけ方やタッチもそれ以前のものとはやや違っていたように思うが、世界そのものの変化というほどのものではなかった。

今思うと、当時制作に向き合う過程の中でご本人なりの葛藤が在った時期であったのかもしれない。勝手な憶測ではあるが、違ったイメージが生まれたか、あるいは違うものを求めたか…。

以後、作風は落ち着きを取り戻し、しかし色彩がさらに深みを増して以前の美しさとはまた違った味わいが生まれていた。私は太田さんと交流があったわけではない。太田さんと初めて お会いしたのは、昨年のギャラリー絵夢でのグループ展の際である。太田さんは自由美術に顔を出されるということが極めて少ない方だった。どのような方かと想像を重ねつつもなかなかお会いする機会がなく、ギャラリー絵夢が最初で最後となってしまった。大変残念である。

しかし、不思議なもので長年作品を興味深く拝見していたためか、遠い存在という印象は全くなかった。同じ大学の、そして同じ自由美術の仲間として私の中に大きな存在感が生まれていた。今後もそうした存在感は私の中に生き続けるであろう。初めて太田さんの作品を見た時の印象とともに…。

ご冥福をお祈りします。

中村研二さん その優しいまなざし

光山 茂

自由美術本展2015_img_63_1.jpg「やあ光山さんしばらく」いつも優しいまなざしを向けて語りかけて来た中村さん。自由美術への初出品が2001 年、1991 年頃から青梅市立美術館主催の多摩秀作美術展に出品していたとのこと、いずれにしても本格的な発表は古稀を迎えられるころからということになります。大木を画面の中心に据え、そこに家族と思しき人が描かれている作品シリーズは、自由美術の作品群の中では異質な輝きを示していました。樹木を真っ向勝負して樹肌の質感に迫る作品を描く作家はまさに腐るほどいますが、中村さんはそんなテクニックに拘る方ではありませんでした。大木は周囲の大気に溶け込み画面全体が寒色と暖色でファンタジックなものでした。しかもその色感は夢みる乙女のような初々しく自己主張を極力おさえているように感じられました。高校の数学教師として長らく教鞭をとられた中村さんと作品から受けるイメージとのギャップに知り合った当初は戸惑ったものでした。「光山さん、美術の根幹は何と言っても生き様の表現ですよ、リアリズムが貫かれたものでなければいけません。児玉晃さんの自画像に対する執着は学ぶこと大ですよ、信念を曲げて誰かに、権威や名声の誘惑に、負けてはいけないんですよ。」時を経て彼の作画への信念を知るに及んで当惑は解消されました。そんなわけで私の美意識に共感してくだされ彼との晩年の10 数年の厚みのある交流ができたのでした。中村さん、もっと高らかに大器晩成の響きを作品の中に漂わせてほしかったという惜別の思いでいっぱいです。ご冥福をお祈り申し上げます。