相互批評

永野曜一・石田貞雄

原初への回帰 -石田貞雄小論 永野曜一

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石田貞雄:「埋む風景」

石田さんの作品を前にするといつも思うことだが、一枚の絵を見ているというより、一幅の創世神話に立ち会っているような壮大な動きのあるドラマを感じる。

「埋む風景」シリーズは、天地のはじまりの光景のようでもあり、どこか別な惑星の断末魔の光景のようでもある。つまり、石田さんの絵の中では、時空の始まりと終わりはひとつに結び合っている。空は裂け、地軸はゆがみ、原初の太陽はガス状の旋風に巻かれてかすんでいる。うねる大地は絶えず鳴動し、夜と昼の境も判然としない。

これは見る者を呑み尽くしてしまう絵画だ。この圧倒的な他者性を前にすると、われわれが何ものであり、どこから来てどこへ向かうのかという永遠の問いかけが切実なものとして込み上げてくる。人間の奢りなど、この絵の前ではたちどころに色褪せ、吹き飛んでしまう。

石田さんの絵はユニークだが、あえて古今の美術史にその系脈をたどれば「世界図」に行き当たるような気がする。「世界図」の代表的な作例は、ピーター・ブリューゲルの「バベルの塔」だ。そこでは、宏大な自然の展望に対比された人間の営為の空しさが描かれる。紀伊國屋画廊個展での「流亡人」(1973年)以後、石田さんの作品画面から人間は徐々に消えていく。地質.1. 年代的とでもいうべき途方もない時空のスケールが、たかだか二百万年にすぎない人類史のスパンを呑み込んでしまったのだろうか。その時の案内状で、今は亡き評論家の坂崎乙郎さんは「そのおおどかで原初的な姿はすでに人間をこえて風景と呼んでもさしつかえなかった」と書いている。

ときに石田さんの絵は、瞑想的でどこかしら東洋的なたたずまいを見せるときもある。ためしに石田さんの絵を六曲一隻の屏風に仕立てたとしても、さほど違和感がないにちがいない。安土・桃山期の絢爛豪華な障壁画ではなく、それ以前の室町期に描かれた幽暗で古怪な趣のある山水屏風図に通じるものがある。

もしゆるされるなら、石田さんの絵を美術館やギヤラリーではなく、枯山水の石庭に面した座敷に置いて眺めてみたい。その前で座禅を組むのもよし、茶を点てるのもよし、美酒を酌み交わし清談に耽るのもよし。こんな連想を掻き立てる石田さんの絵は、天地を縦横する力強い自然の気に溢れている。モダンでセンシティブな抽象画とは一線を劃した野太い世界がそこにある。

「とわずがたり」風に 永野曜一さんへの手紙 石田貞雄

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永野曜一:「黙示」

混沌は動いている。太古、天地万物はこの混ままだが、混沌は尚その正体を証すことなく、沌から神々によって創造されたという。私のな連綿と存在し強烈で不可思議な興芒と明闇のエかで混沌も神々の時代の事も、依然として謎のネルギーを放って動いている。

かつて混沌が起こす現象に私は喜怒を繰り返した。果てに混沌は混沌そのものだと自壊した。以来、混沌と私の五臓六腑にいる例の腹の虫が酷似してきた様に思う。混沌から言の葉の捜しだす行為はかなり物懶い。

永野曜一さんは「閑吟集」という作品で、2007年に第一回青木繁記念大賞展で特別賞を受賞している。私はその作品を未見だが審査員諸氏は作品に永野さんの資質をみたのだと思う。私が自由美術展の会場で永野作品をみはじめて、ほぼ10年程になるだろう。つまり10点程の作品しかみていないのだ。

私自身の断定で作品に触れていく。私は永野作品を二種類の世界に大別してみてきた。

色面音響を軽妙な線でまとめる洒落た極面、暗色面を荒ぶる線の奔放に走る渋い極面の二種類の世界。会場でみる作品はその一極面で遊離して出来上り、私のみたい両極の融合作品までには至ってくれない。

その後、二枚の作品写真を拝見した。前記した「閑吟集」作品と2013年に同展に入選した「廃亡」という作品だった。「閑吟集」はその今様のイメージを掬い取った色面と軽妙な線でまとめた例の一極作品だった。「廃亡」の画面には不思議な空気があった。

2014年の6月、札幌時計台ギャラリーの永野さんの個展作品20余点をみた。

私は直感的にその作品に混沌がいると思った。大賞展出品の100号作品を生で見ることが出来なかった事は残念だったけれど、それを凌ぐ作品をみた様に思う。永野作品に溶解が始まっていたのだ。画面には丁寧な筆と手の動きがあった。濃やかな色彩と時間が、華やぎと冴えた重さの波動があった。

この融合は混沌のなかで生成されてくる。 混沌の不可思議にはこの様な清浄もあるのだ。自由美術展の10年間の作品は、動揺する二極の力をある極点に結実させようと.く永野さんの行為の軌跡なのだと私は思った。

あなたの嗜好も性情も風土も混沌の塊にした作品を、私はみたいと思っている。

ものを創造する事は正に創(きず)を造る事。自身の今のリアルを創る事なのだから。 閑吟集から始まったので閑吟集で終ろう。

私は閑吟集も、それ以前の梁塵秘抄の今様歌も好きだけれど、やっぱりそれ以前の今昔物語の混沌の集積した説話をより好む質だ。

閑吟集の 55番歌を引こう。 ≪何せうぞくす んで一期は夢よただ狂へ≫永野さんあなたの肉 体は、この歌のただ狂へを如何様に捉えるのだ ろうか。混沌は今も動いている。