作品の良さとは

立体部 田中晋太郎

ここ6,7年ほどになるだろうか?自分の作品がつまらなくて仕方が無い。一体どういうことだろうかと考えてもその理由が分からず、何とも言えない気持ちの中で過ごしている。自由美術の本展に出品しても何とも面白くない、何故だろうか?

作品の良さについて感じるアンテナも何か変化してきているようにも感じている。若い頃は作品は意味も無くパワーを放出していれば良いし、何だかよく分からなくても何かであれば良いと思っていた。

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形にとらわれるよりも、形が世の中の現象を表現する作品、そのようなものを作りたいと思っていた。彫刻の魅力はそのスケールにもあるし、大きな作品を作りたかった。今思うと全く実力なのだと思うのだが、大きな作品を実現させるためにはお金が必要で設備もそれなりに必要になる。自分の場合にはそれを実現させるため、素材を安いものにした。素材が安くても良い作品を生み出せると信じていた。しかし、素材を軽視すればやはりそれなりのものになってしまう。

いつものことだが自分の作品については、実際に展示をして時間が経過することによってしかその意味が分かってくることはない。

展示が終わればただの産業廃棄物のような存在になっている。こんな作品を作っていていいのか?

抽象の作品も形のバランス・空間の取り方など、分かる人は分かってくれる。しかし、そのような方向性で作っていても良いのか?大きな方向性について考えるようになった。

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何だかよく分からなくても魅力ある作品。作品と呼ぶのはおかしいかもしれないが、奈良の明日香村にある亀石、自分の中ではこれがまさにそれである。亀石と言われなければ何だかよく分からないへんてこなフォルム、3メートル近くもある大きさ、そして石が持つ素材の魅力。誰が何のために作ったのか。何だかよく分からないが作品が持つ意思のようなものが確かにある。それに、この亀石が当麻の方向を向くと奈良盆地は水没するという言い伝え。とにかく魅力がある。

明日香村には亀石の他にも酒船石や鬼の雪隠、鬼の俎などなど不思議な遺跡がたくさんある。石舞台があり、これは蘇我の馬子を埋葬した遺跡ではないかとも言われている。

奈良を旅行してみると明日香村の魅力がより強まってくる。

石舞台などの巨石文明が日本にも存在していたこと、飛鳥寺をはじめ橘寺、岡寺など仏教が伝来してきた当初の様子を感じることができる場所が多数あり、古墳時代から続く時代の流れと聖徳太子らが仏教を柱とした国作りを進めていった名残りを感じることができ、とても興味深い。聖徳太子が有名なのは、その功績だけではなく、国を作ろうという強く熱い意思が伝わって来るからに違いない。

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すぐにでも見に行きたい場所がまだまだ沢山あるし、知らないこともたくさんある。学ぶことにもさらに深みがあるということも知るようになってきた。それに一応言っておくが私は特に強い信仰などはない。

あくまでも美術的な興味・関心からの視点でこれを書いている。

奈良時代、平安時代、鎌倉時代の様々な建築、仏像などを見て歩いて驚くのは、大昔から天才的なデッサン力のある仏師、職人たちがたくさんいたということだ。建築、庭、それぞれ空間の扱い方も非常に巧みである。

好きな寺、像は多数あるが、特に忘れ難いのは室生寺である。山の奥にある静謐な空気。火災に遭わず創建当初から残っている本堂、金堂仏像。圧巻である。平安時代にこんなに力がある仏師たちがいたことに驚嘆するばかりである。

それぞれの像からそれを完成させようとした人たちの強い意志が伝わって来る。そしてそれを残そうとしてきた人たちが多数いたと言うことも伝わる。それらすべてを含んだ時間の重さ。これらを作った大工、仏師たちには信仰心があったのだろうか?自分もこのような像を作ってみたいとも思うが、それに見合うだけの信仰心が必要なのではないか?とも思う。

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自分がこれらに匹敵する作品を残すことが出来るのか。出来ない、とは言いたくない。しかし、である。生活のために一日の多くを制作とは別の仕事をしている今の生活の中からそれを成し得るのか甚だ疑問である。

それに恥ずかしい話なのだが20代の頃にも上記の寺の一部は見ていたのだが、見た時にはその価値、すばらしさについては今ほど深く感じなかった。

それらを感じるアンテナが無かったのか?それとも感知する力が弱かったのか?

抽象作品に傾倒する勝手な思い込み、センスのなさ、勉強不足、それらが原因であったのではないかと今になって思う所である。

形の巧拙にこだわらず、表現それ自体をより深く追求したいという思いから抽象表現に取り組んできた。展示が終われば壊してしまっても良いし、残らなくて良いと思っていた。しかし、 展示の後、作品を分解し保管している状態を見るたびに、一体自分は何をやっているんだろうとも思ってきた。金にもならず、自分のプライドの残骸のようなその保管場所の作品。もちろんそこには彫刻への強い思いもあるが、喜んで産業廃棄物を生産しているような不毛さも感じていた。そのことについては目を向けないようにしていた部分もあった。

作品の良さについて考え方が変化してくることにより、自分の作品を残したいという思いが強まってきた。それは自分の人生に限りがあるということに気がつき始めたからなのか、作品の良さについて思う方向性が変化してきたからなのか、自分ではよく分からない。作るからには良い作品を作りたい、残る作品を作りたい。こんな基本的なことも分からなかったのかと振り返ってみて思う。

作品を制作する上で素材について今までは二の次のような所もあったが改めて基本に立ち返り、彫刻の持つ魅力、力強さについて考え直し制作を行いたいと考えている。最近は彫刻だけではなく、版画や革工芸などにも取り組んでいる。

日本画や西洋絵画、デザイン、工芸など視野を広げてみると様々な優れた作品が多数あり、学ぶことは無限にあり、それを吸収し、堂々巡りではなく螺旋を描くように高みに向かって行くように制作できることを願うばかりである。