エッセー自由美術
パステル 父 鶴岡政男との思い出
磯部 眞知子

東京美術展の会期が明日で終わる。赤い馬もひらひらと数日でここへ帰ってくるだろう。
あの時、父が亡くなる3、4日前だった。時々薄れる意識の中で、手を持ち上げ、すうっと動かしている。
「何をしているの?」と聞くと
「馬、赤い馬」と言った。
母と私は顔を見合わせ、「絵を描いている、赤い馬だって」と、ほっと笑った。
私が大学の近くへ下宿して谷中の家を離れていた時、「眞知子が来たら渡してくれ」と父はパステルを母の所へ置いていった。10cm 四方の薄い干菓子の入っていた箱だった。
ほとんど1cm ぐらいにチビたパステルが箱の中にギュッといっぱい詰まっていた。

オーケストラ部に入り、フルートを吹いたり、父と音づくりをしていたので、私が絵を描くようになるとは思っていなかった。そのころ父のパステルの個展があった。
「何か描いてごらん」と追い込みにかかっていた父が急に言った。
一年前に日本画廊で行われた「ラクガキ日本68'」の作品<ライフルマン>(縦約2m 横約4m)の下塗りを手伝ってはいたが。
「ええっ、私が?、いやだ」と言いながらも描いた。
数日後、個展会場に父の作品「ためらう」が架かっていた。
私の絵の中の Å とゆうスエーデン語の文字や、フォルムや色がそこにあった。
私のロボットチックに描いたものより、やはり、ずっとよかった。
しかし父の数あるパステル画の中で「ためらう」は記号と線と色とが、全く他の作品とは異なっていた。
父の部屋で私の描いた絵は、マリリン・モンローの大きな写真の隣にピンナップされ、父とずっと飛びまわっていた。あの時まで。