エッセー自由美術

井上長三郎と照子 パリから板橋へ

板橋区立美術館 学芸員 弘中智子

自由美術本展2015_img_35_1.jpg板橋区立美術館では2015 年11 月21 日より12 月27 日まで「井上長三郎・照子展」を開催いたします。2 人の画家は共に1995 年、今から20 年前に亡くなりました。長三郎は1980 年に板橋区立美術館、2003 年に神奈川県立近代美術館と伊丹市立美術館で回顧展が行われていますが、夫婦2 人の作品が並ぶのは美術館では初めてのことです。

長三郎は妻の照子について「わたしにとっては、妻の存在は空気のようなものと思われます。妻からみれば、わたしは風というわけでしょう」と述べています。1937 年の結婚以来、2 人はパリ、池袋、そして板橋に暮らし、一つ屋根の下で描き続けました。ここでは、2 人が戦後を、自由美術に参加する以前のことを中心にご紹介したいと思います。

長三郎は1906 年に神戸で生まれ、家族と共に大連に移り住み、少年時代を過ごしました。照子は1911 年に、父が朝鮮総督府の通訳をしていたために京城(現・ソウル)に生まれ育っています。共に日本の「外地」と呼ばれる場所で幼少時を過ごし、上京後に長三郎は太平洋画会研究所、照子は女子美術専門学校(現・女子美術大学)で学んでいます。2 人の出会いは独立美術協会と考えられます。長三郎は様々な展覧会への出品を経て1931 年の第1 回展で独立美術協会賞を受賞し、。若手画家として注目されていました。照子もまた、1929 年に行われた朝鮮美術展覧会などで風景や静物画を発表していましたが、1932 年からは独立美術協会展に出品するようになります。その頃、照子は学校を中退するのですが、両親へ宛てた手紙の下書きには、学校での実技教育の乏しさを批判しながら、独立美術研究所においては「最も眞摯な態度で勉強してゐる人の中にて、私も最もよき勉強が出来ます」と訴えており、学校よりも私塾で切磋琢磨して学ぶ、長三郎らの姿に自分の進むべき道を見出したようです。2 人は画家として認め合っていました。結婚前の1934 年に大連に一時帰郷していた長三郎から東京にいる照子に宛てた手紙には、照子の近況や絵の勉強の様子を尋ねながらも「一日も早く佛蘭西に行きたいものだ」と書かれています。揃ってのパリ留学は彼らの共通の夢であったようです。

自由美術本展2015_img_36_1.jpgそして1938 年、夫婦となった2 人は長年計画していたヨーロッパ留学を実現させます。パリで撮影された若き井上夫妻の写真からは、夫婦として、画家として決意を新たにする2 人の姿が確認できます。パリでは共にアカデミー・グランド・ショミエールに通い、そこでのデッサンも数多く残されています。照子は1938 年12 月に開催された在巴里日本人美術家展覧会に「風景」を出品しました。彼女が滞在中に書いた日記には、ルーブル美術館で見た作品の感想や、食事の様子が綴られており、フランス語の勉強ノートからはいち早くパリでの生活に馴染もうとする様子がみえてきます。留学を終えて1940 年にヨーロッパから戻った2 人は大連に新居を構え、滞欧作品展を開催。その後1942年に池袋のアトリエ村、今では「池袋モンパルナス」と呼ばれる地域に引っ越し、1940 年と1942 年には女の子に恵まれています。戦時中の長三郎は、1943 年に靉光らと共に新人画会を結成して《トリオ》をはじめ、戦争とは直接関係のない作品を発表し、また同年の決戦美術展に《漂流》を出品したところ、厭戦的だとして展示を許可されませんでした。

終戦後の井上夫妻は板橋に居を構え、自由美術家協会に参加しました。長三郎は東京裁判をテーマにしたもの、紳士シリーズなど社会派の作品で知られ、また照子は自然から派生させた自由な造形、豊かな色彩による抽象画を描き、共に亡くなる。1995 年まで発表をし続けました。

本展では、ご家族、関係者、全国の美術館のご協力により、長三郎の満州時代の作品、照子の1930 年代の作品など初公開となる絵画や資料も併せてご紹介いたします。

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