エッセー自由美術

先達作家の仕事と思い出

小山田二郎展を見て、その陰翳と夜

大野修

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2015年3月、府中美術館で小山田二郎展を見た。1991'年77才で死去されたが、油絵作品約100点を含む170点の展示で、油絵作品など初見のものも多く、充実した時間を持てた。
自由美術には1947年から59年まで、その他個展はもとより日本アンデパンダン展、人人展などに作品を発表、自由美術の作家や周辺に影響をあたえている。その作品を見るたびにいつも谷崎潤一郎の随筆、陰翳礼賛(いんえいらいさん)を思う。80年前に書かれた文庫本にして約50ページの文章だが、女性美について歌舞伎と能楽の比較をしている。能楽に比べて歌舞伎の照明が明るく、女形(おやま)を自日の下に晒してしまっていることを嘆いている一文、以下引用すると<昔の女形でも今日のような明煌々たる舞台に立たせれば、男性的なトゲトゲしい線が眼立つに違いないのが、昔は暗さがそれを適当に蔽い隠してくれたのではないか><美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える>又<進取的な西洋人は、常により良き状態を願ってやまない。蝋燭からランプに、ランプから瓦斯燈に、瓦斯燈から電燈にと絶えず明るさを求めて行き、僅かな蔭をも払い除けようと苦心をする。>今世界で昼夜の明かりを一番ぜいたくに過剰に使っているのはアメリカと日本で、美術の演習でも静物のモチーフや裸婦にあらゆる所から光があたり、その美しさは半減どころか腹立たしく殺される。特に長い蛍光管が出てきてからは陰翳などはもっての外で、街中に無秩序な光があふれ夜無き世界はひどく疲れる。精神疾患の増加と無縁ではない。繊細で正常な精神の持ち主は気が狂うことになる。
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平飼いをしている鶏は1年に20ケぐらいの卵を産むが、鶏舎で夜昼かまわず光をあてられて飼われる鶏は200ケを優に越える。人類誕生はおよそ200万年前らしいが人間の夜無きこの僅か200年のあらゆるものの生産性は鶏舎の鶏のごとく驚異的だ、しかし失ったものの大きさは計り知れない。
小山田二郎の絵を見て心休まるのは、夜と陰翳が作品世界を支配していて日本の画家の中にあっては希有な存在だと思う。昼と夜は同価値なのに、今子供達にとってもいや大人にとっても夜と陰翳は忌みきらわれている。
小山田二郎の作品世界の世評は生来の病魔による異形の相とも関連づけられ、幻想と怪奇、悪魔性、孤独と絶望、闇の世界の加虐と自虐、などなどであるが、私には全くその様に感じられない、本当はこれらを全て裏返した世界が小山田絵画であるわけだと思う。そこは心安らかな正常な世界で、描かれたピエタ、鳥女、亡者達、魑魅魍魎の数々は私を含めた見者にとって普遍的な世界として暖かく優しくせまってくる。そうでなけれはこれほど愛されることは無い。それから氏の作品から強く感じられるのは、絵にお話があり、その内容の底辺には生来の病によるハンデキャップを背負って生まれた面容、少年期の不安定な生活、敗戦の年の空襲による全作品の消失がルサンチマンとしてあり、氏の怨念感情は蓄積されて巨大なものとなり作画の原動力となっている、しかし偉大はそれを反転させたことであり絵は普遍性を持ち平明だ。
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ルサンチマンのない人間は単純で退屈だけど、だからといってそれを持っている方がいいというものでない。その行き着く先は人をも殺す。しかし絵の中では人を昇天さすことも世界を焦土と化すことも全て可で、小山田二郎の絵にも悪魔や聖者や死者が出てきて夜の世界を徘徊しているが、それらは怨念を越え昇華されて天上のものとなっている。氏の小さな水彩画でも私は絵の中のストーリーを勝手に組み立てて飽きることがない。作品の中に物語を読むことも美術の欠くべからざる要素で、昨今お話がある絵が復活しつつありそれは結構なことだ、しかし作品の二層三層の奥にルサンチマンを感じる絵は九牛の一毛、はなはだ少ないと思われる。
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小山田二郎の作画技術は、地と図の関係で見ると地にあたる部分に多大な神経を使っていて、これは造形造形と馬鹿の一つ覚えのように唱えていた自由美術のあのころの仲間の良き影響で、画面は情緒に流されず強固なものとなっている。又色面を世間の普通絵画よリー、二段暗くして陰翳を作りその中に明るい色を少量重ねる作法で絵は輝く。水彩も美しい。ここでも画面の地に楽しみがあるようで、紙で濡れた部分を洗いながら吸い取っていて、それを何回も繰り返し幽玄、幻想的な地が出来る。水絵のにじみ、ぼかし、日本画のまき絵的な散らしなどが手の中に入っていて見る快楽をもらった。
谷崎潤一郎の陰翳礼賛の文末はこの様にくくられている。<我々が既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の?を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない、一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、試しに電燈を消してみることだ>私はここにある文学という言葉を美術という文字に置き換えたいと思う。