制作とその周辺

栗本 浩二 / 今野 治 / 斎藤 國靖(司会)

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栗本 浩二:「陽光の前で」, 2009 油彩・綿布, 2009年

斎藤:今年の自由美術誌の特集に、「自作を語る」をテーマとして、12名の作家に制作とその周辺を記述していただきました。その一環として、若手のホープである30代の今野さんと、今年のベストセレクション展でも注目を集めた50才になる栗本さんに、制作とその周辺を多面的に話し合っていただきたいと思います。先ず、今野さん、栗本さんが用意してくれたポートフォリオのなかにそれぞれの制作意図が簡潔に記されています。それを紹介することから話をすすめたいと思います。

『興味や関心を持った対象や自然に対して、それらを見ていた時の自分の何気ない行為(例:歩きながら、走りながら、横目に見やりながら等)も含め、身体的かつ複数の視点によって向き合いたいと思っている。ふと現れては遠ざかる親しくも唐突な自然や日常の差異を、油彩の重層的な構造を生かし、プロセスの継起性や偶発性をも取り込み表現したいと思っている。』(今野 治)

斎藤:この今野さんの文章を読むと、近代と現代の美術が追求してきたキュビズムの問題や見ることの身体性、知覚の在りようがリンクしてベースとなっていると思えます。今野さんのコメントにあるように、「対象や自然に対して身体的かつ複数の視点によって向き合う」とき、従来までの一点透視図法への批判が生まれてきます。そこで絵画における奥行きをどの様に考えているのか聞かせて下さい。

今野:奥行きと言われれば、まずアルベルティの一点透視図法が思い浮かびますが、その形式が現実空間に基づく正確なものだという認識は長い間存在しました。アーウィン・パノフスキーによって20世紀に書かれた『象徴形式としての遠近法』という本は、その一点透視による空間把握が、あくまで数学的に測れる量として秩序付けられた「象徴的な形式」であり、私たちの現実の知覚とは一致していないことを述べています。リアリズムと言う観点でも、セザンヌを始めキュビズムが追求した多視点的で空間が連続していく一視点だけではない構造性の方が、私たちを取り巻く日常に合致していると感じます。この多視点と言う手法に関しては、何も20世紀の絵画にのみ見られるものではなく、ビザンティン美術の壁画を例に見ても、パースを無視した奥行きや、複数の時間と視点のよる表現が存在していました。ビザンティンの壁画に関しては聖書の逸話をより合理的に図式化するという目的から表現が行われています。

ピカソによって創出されたキュビズムは、西洋絵画の従来の空間表現が現実に対し行き詰まりを見せていた時に出てきました。絵画の可能性を突き詰めた結果、ピカソはアフリカの彫刻や古代エジプトなどの古典的表現から色々なヒントを得ていたようです。美術の長い歴史の中では、一点透視による空間把握の方がむしろ特殊な一例なのではないかという認識はピカソにもあったと思います。

斎藤: アルベルティ以前の中世絵画やビザンティン美術も、形が輪郭で括られ、その内部が平面的に彩色された画き割り的表現となっています。キュビズム絵画では、地と図の関係は徹底的に意識化されていますが、ヴォリューム表現は抑制されています。この様に西洋における多視点的な絵画は、フラットな表現になっています。

自由美術本展2014_img_5.jpg今野 治:「地にかえる」油彩キャンパス2012 150号

今野: 多視点にするとモデリングしづらく、平面的でフラットな表現にしないと物の連続性が画面上で保てない様に思えますが、例えば中国北宋の郭煕の『早春図』を見ても、「三遠法」という手法で複数の視点が組み合されながらも、山や岩には量感があり、ある連続した空間を感じさせます。複数の視点と物の立体感が両立されており、西洋の立体的な物の把握にも引けを取らないものだと感じます。物の立体感というのは、僕にとって事物をその周囲から切り取って触るような知覚、感覚からもたらされるもので、本来事物の動きと立体感は一つのものだと考えています。風景や光景が時間や空間の移行の元で、ある一つの層や面として現れる感覚と、周囲から切断し掴んでくる感覚、言い換えると、全体的な視野と部分的な視野ということになると思いますが、この両方が日常の差異を形作っているのだと思います。

斎藤:栗本さんは、次の様なコメントを記されています。

『作品テーマは、生命の力の表現です。作品制作のきっかけは、私の日々の生活の中で、空気や植物などの自然の存在が気になります。一つの事柄に目を配り凝視していると、いろいろな発見が見て取れます。気づかなければ私の中を通り過ぎていく感覚達、そういう物事の中にこそ、本質的な未知の力や新しい法則を感じることがあります。それは自然界の中にある多くのものから、色彩や形態、事物を再発見することで得られます。そして、制作の動機は、様々な事柄から共通する規則性や繋がりを発見し、それを再構築することが私の制作手段になっています。具体的には、色彩と有機的な形を使って油絵具の物質的な強さと色彩の強さを使って、日常的な場の見え方を変え、新しい刺激を生み出します。現在の作品は、陽光の前で広がる生命の力をテーマにして、現在目の前で起きている様々な想いを表現した作品を制作しています。』(栗本 浩二)

斎藤:栗本さんの作品は、鮮やかな色彩と強い明暗のコントラストで、有機的な形態が形成され、エネルギーが溢れた様な表現になっていることは、今までの作品に一貫して感じられます。しかし、現在の様な作品以前は、平面性が強調された絵画が周囲の環境や空間の中でどの様な影響や関係を持つかと言う視点が大きかったと思います。絵画の要素やヴァルールは画面には収まり切らず、上下がアンバランスな状態をあえて作ったりしていました。今はどちらかと言うと、画面の中での一つの世界の表現になって来ていると感じます。

栗本:最初はいわゆる従来の形の「絵」ではなく、空間性みたいなものが主眼で、その中で色彩の持つ強さや力を空間と共にどう繋げて表現するかという意識でした。数枚の作品をある一定の間隔で展示することによって周囲の白壁や空間も巻き込み作品を造るという表現です。埼玉県立美術館のパブリックスペースで行った展示では、作品を単に並べるのではなく、ギャラリー会場の空間自体を変えてしまうというコンセプトの元で、20本の縦長の作品をある一定の感覚を保って羅列し、壁一面が一つの作品になることを目指しました。しかし、次第に既定の空間の在り様によって自分の表現の発展性が広がらないことや、見る人との間に理解の差やズレが出来ることに対して、次第にもどかしさを覚え始めました。また、表現としての展示スタイルであったにも関わらず展開や絵画作品の内容に関しての意味に手ごたえを感じなくなってきました。その状況に不満を抱えながら、新しい展開を目指して自由美術に出品するようになり一枚で完結したものを見せるという絵画の在り方を意識するようになりました。

世界で起こっている様々な現象や日々の出来事を取り込み、見る人により強く働きかける際に、具象性や物語性は自分にとって重要だと考えています。昔、ある公募団体で重油の海への流出事件を基にして描かれた絵を見たことがありました。油を浴びて汚れた鳥なんかを直接的に描いたりしているのを見て、なんでこんなものまで描くのだろうと思いました。しかし、震災があった後、自分は震災をテーマに実際に作品を描いたことがありました。その昔、重油の海を描いた作家の意識と繋がりました。客観的に見れば、なぜその題材を選んでいるか分からなくても、本人には切実なものがあるのだ、という見方を多く感じます。名もない花や、忘れ去られてしまった何気ない出来事などにも様々な物語が存在しています。作品づくりには、個人的な焦点がありつつも客観的、俯瞰的に自己を見る部分とのやり取りや往還が重要だと思っています。

斎藤:栗本作品の展開は、いわゆる美術史的な流れとは逆方向に展開していることがユニークだと思います。大雑把な言い方ですが、かつての古典絵画では奥行きのある空間のなかでテーマやメッセージのある絵画が描かれ、近代においては絵画を色と形の問題と捉える思考がひろがり、現代に至っては平面や絵具の物質性に注目してきたという流れがあると思います。それに対して栗本さんの2000 年頃の作品は、現代美術的な視点で把握した障壁画的な空間に近いものがあると思います。近作では画面の中に具象的形態を思わせる有機的なフォルムが展開し、徐々にテーマ性が深められるとともに画面の奥行きへの深度が増してきたように思えます。色面と色面の移り変わりは、シャープな部分から無限に溶け合う様なところまでスフマートの巾があり、それは肉眼で対象を見た時のスフマートの巾を超えていて、アニミズムを感じさせる超現実的な世界としても見えてきます。ところで栗本さんの画面の随所に見られるシャープな部分とスフマートされた部分の表現には、規則性というか法則の様なものがあるのですか。

栗本:意図的にと言うか、どこに焦点を置くか、描きながら決まってくる部分があります。絵具の垂れや、大きなアクション、滲みやボケた感じなどを自分の感情を通して描きます。すると、それらの痕跡が現れその痕跡をじっと凝視していくと様々なものに変化していきます。絵がしゃべり出す感覚ですかね。その言葉を聞いて制作することが多いです。ですから焦点は一枚一枚異なってきます。また、絵からは、かなりの頻度で形や質、色の誘惑があります。その誘惑を聞き過ぎると後で修正できなくなってしまうので緊張感が重要です。ただエスキースの段階で作品の明暗の対比は気を使っています。色彩の明度と彩度も共に意識しないと画面が壊れてしまうと思っています。色はたくさん使いたい方なので、そういう事をしっかりやっておくと、描いていると画面上で色が響きあう瞬間、例えて言うなら、音がハモる様な状態がやって来ます。

作品のオリジナリティーとは何か

斎藤:この座談会を始める前までは、いわゆる一般的な意味で言って「抽象」を描く今野さん、具象的な私(斎藤)、そのちょうど中間の栗本さん、と漠然と思っていましたが、用意してもらった二人の資料と話を聞いてみて思ったのは、ある意味で一番具象的なのは今野さんで、一番抽象的、概念的なのは私かも知れないです。今野さんの絵は一見抽象に見えたとしても、それはいくつかの具体性を重ねた結果であろうと思います。昔は、再現的な作品は「具象」、色と形を中心に進めるのが「抽象」という風に結構分類できました。今はそういう文脈では成立しなくなってきています。

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斎藤 國靖:「仮説としての絵画」油彩綿布, 金箔, 120P+120S+120P

栗本:具象と抽象という差は表面的な部分での話で、僕自身は具象を描きながら抽象を描いているという意識です。僕は描いてあるものを見せるのではなく、その中にあるものを見せたいのです。だからある意味記号ではあると思います。花であるとか抽象的な動きを裏付ける取っ掛かりを作りたいと思っています。自分には精神的な部分や感覚的な部分で言いたいことがあって、こういう気持ちを伝えたいというのがあり、それをどういう切り口で提示していくのかが重要です。

最近仕事の関係で「表出」と「表現」の概念について考える機会がありました。「表出」は第三者がいない部分で現れる部分としてあって、例えばアウトサイダーアートの例にも見られる様に、利害関係も無く心から直接出てくる純粋な表現に当てはまる概念です。それに比べて「表現」は何かに向けてのメッセージを整理して提示するものと言えます。作家の中でもこの「表出」と「表現」の部分がどう関係しているのか関心が出てきています。

今野:作家は多かれ少なかれ「表出」に憧れる部分はあると思います。実際には作家と言うのは、一枚ではなく連続して制作し差異を読み取っていかなくてはならない立場ですので「表出」だけでは繋がっていかない部分が大きいと思います。始めに意図を設定するからこそ、その枠組みの中に入り込んで「表出」を引き寄せようとするのが本来あるべき姿なのだと思います。僕の場合は、始めに作品意図としてメッセージ性の様なものを作品に込めるのかどうかと言われれば、自分はメッセージ性に関しては希薄な方だと思います。僕の場合、制作意図があったとしても「悲しい」とか「楽しい」と言った明確に一つの言語が当てられない感覚や感情にこそ興味を覚えます。僕が視点として持ちたいのは、例えば「あの通りを歩きながら見た時の、あの木の感じがとても印象に残っている」みたいな観点です。一つの視点から関心を集中し囲うようにして捉えた対象ではなく、ある一定の長さや持続をもった一連の行為の総体、全体がモチーフだったりします。今新たに進めている作品は、自分が住んでいる5階のマンションの階段を昇り降りする時に見える風景を元にしています。いつもエレベーターではなく階段を使っていますが、階段の昇り降りによって螺旋を描きながら眼下の木々が次第に頭上を覆っていく感じだとか、足元を見ながら目の端っこの方に見える木々の光の印象だとか、そういう事物の流動性や多視点的な在り方を今までやって来たことを元にしてもう一度見つめ直したいと思っています。

斎藤:今野さんはアクションペインティング風の筆触でぐいぐい描く。栗本さんはフォルムに制限を与えて描いているのに比べ、筆触そのもので画面を作っていく印象です。

今野:筆触で探って行きながらも地と図の関係と言うのは意識してフォルムは作っています。筆触を顕在化させるのは、絵画のプロセスを目に見える形で辿れる表現を目指しているからです。物質としての絵画が与える構造やプロセスは、物と物との関係によってイメージや自己を拓いていく際に重要なものだと考えています。例えば『地にかえる』という作品では、意図的に膠塗りのキャンバス地を残している部分があります。その膠塗りキャンバスの質や色を、筆触を組織する際の起点として、またイメージを展開する際の取っ掛かりとすることで制作を進めました。

栗本:今野さんの絵を見るとフランシス・ベーコンとの関連性が気になります。そこら辺も少し聞きたいです。

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栗本 浩二:陽光の前で 〜何処へ・彼方へ〜, 油彩・パネルに綿布 180× 227cm, 2011 年

今野:一時期感銘を受けて絵画的な処理や画面の組み立て方などから影響を受けたことはありましたが、自分としては最も影響を受けたのは野見山暁治です。自由美術の名前を知ったのも彼の図録などの経歴を見て、若い頃出品していたのを知ってからでした。作品との最初の出会いは東京国立近代美術館での大規模な展覧会の時ですが、その得体の知れない動きのある絵画空間は、「絵画とはなんであるのか」と言う問いを突き付けてくる画面で一気に引き込まれました。彼からはとても大きな影響を受けましたが、この前の東京自由美術展の出品作では、今までの影響からは画風を切断させようとして描きました。偉大な作家ほど影響が深すぎると厄介なものもなくて、野見山暁治もその一人です。かつて日本の画家がセザンヌの描き方に影響を受けてそっくりにタッチを真似して悲惨な状況になっていましたが、野見山絵画も同じ様に気をつけないと危ないと思っています。セザンヌと野見山暁治に共通しているのは、特に描き方、プロセスが画面上で可視化されている点なのです。野見山暁治は白いキャンバスに黒い絵具という、とても単純な要素から入っていって、その上から寒暖対比の筆触や線の強弱で画面を構築していきますが、セザンヌの方も最初から最後まで同じ幅の筆で全体的に手を入れていきます。どちらも特別に技巧を凝らしているわけでもなく、やっていることだけ見ればとてもシンプルなもので、画面上で一つ一つの行為を目で追い、拾い上げることが出来きます。両者共に「自分もこう描いてみたい」または「自分にも描ける」と思わせてしまう程、絵画の形式や文法の上で共感を覚えるところがあるのです。両者とも、見る側は絵を描く側の立場でモノを捉えることを要請する側面があるのだと思います。

斎藤:野見山暁治の影響は自由美術のいい流れの一つであって、脈々と存在しますね。今野さんの絵もそういう意味で自由美術的だと云えると思います。

今野:そういう影響って模倣とも違っていて、モノの見方や捉え方に共通性があるから自然と入り込んでいるとも言えると思うのです。であるが故に同時に怖いとも言えますが、、。自分としては東洋の物の見方や、先ほど話があった油彩との体質的な相性などをより深く探って行くことで、いい意味で先人の影響を生かしたいと考えています。具体的には東洋の水墨の世界や紙と水の表現と、油彩の吸収性下地である白亜地の表現に体質的に繋がりを見出せるのではないかと個人的には思っています。

栗本:他の作家からの影響という事に関してですが、ピカソの絵をそっくりそのまま模写の様に写して、『ノン・ピカソ』と題したマイク・ビドロという現代美術の作家を思い出しました。その作家は確か、現在において完全なオリジナリティーは存在しないという考えのもと、実際の風景を見ながら制作することは自然の模倣であるし、ピカソの絵を模写するのも写しているという意味では同じであると扱い、オリジナリティーとは何かと言う問題提起をしている作家だったと思います。自分も若い頃は好きな作品や作家はたくさんありましたが、現在影響を受けている作家は特にいません。見方を変えれば、作品を見ていても、風景を見ていても、何かしていても、作品制作に繋げて考えてしまいますので、逆にあらゆることから自分は影響をいつも受けているのかも知れないと思えます。今は化学や生物や、フラクタルの問題にも関心があります。影響を受けるという事なしでは画家は制作できません。

外国では影響を受けるという事が画風だけでなく、理論やコンテクスト、美術の文脈や理論の解釈に連続させたり、より発展させたりすることが自然体として行われていくところがあると思います。独りよがりではなくみんなが共有するものとしての作品、と言う意味合いがより強いのだと思います。そのような海外に比べ日本には表現を成り立たせている思想や考えをあまり重視しないで、形だけ取り入れる器用さが目につくところがあると思います。

自由美術本展2014_img_9.jpg今野 治:「手前、奥」油彩・キャンパス50 号 2012年

斎藤:栗本さんの指摘のように、私たちは影響関係の流れの中で生きているわけですから、「作品とは、様々なものから引用された織物である。」と語ったロラン・バルトの言葉は的を得ていると思います。かなり以前に読んだ本に『ピカソ:剽窃の論理』(高階秀爾著)というのがあります。ピカソの描いた多くの人物像が、他者によって描かれたもののパクリ、引用であることが図版で詳細に解説されていました。美術史家は文献や図像学的な側面から研究を積み重ねていますが、エカキは、描き方から見ることができるわけです。形の成り立ちから美術史を見れば、中世からボッティチェリに至るまでのテンペラ画の時代は、輪郭線(色面を分断する線と一方の色面に帰属する線の2種類)で形を決定し、その内部を彩色することがテンペラ絵具の特性を生かした最も合理的方法でした。ルネッサンス期から多用され始めた油絵具は酸化重合のために乾燥が遅く、現実には存在しない輪郭線を描かずに、隣接する色面の強弱で形を成り立たせることが容易となり、ダ・ヴィンチからアングルに至るまで、油彩画から輪郭線が無くなった訳です。これらのことを総合してみると、形は線(2種類)と色面の隣接(強弱2態様)の計4種から成立しています。さらに、それぞれが図として描かれている場合と地として成立している場合があり、合計8種類の描き方がある訳です。ピカソのキュビズムの代表作『アヴィニョンの娘たち』の描き方を見ると、8種類の描き方がすべて網羅されており、美術史上に顕れた形の描き方すべてを引用しています。かつてピカソは、 44 44 「絵画とは破壊の総和である」と語っていました。私が若い頃は、アヴァンギャルドの言葉として受け止めていましたが、その後美大で学生と一緒に古典技法の研究をして気づいたことを補足すると、「絵画とは、古典絵画を破壊44してその造形要素を総和44したものである」と言う事ができ、これはそのまま『アヴィニョンの娘たち』の形の成り立ちの説明になる訳です。この作品には、セザンヌの影響とされる多視点による見方ばかりではなく、マネやゴッホの線の研究成果も引用されています。

最近の展覧会について

斎藤:近年の日本では、外国からの名画の展覧会が数多く催されていますが、どんな展覧会が印象に残ったでしょうか。私は、一昨日『ジャポニズム展」(世田谷美術館)を観てきました。浮世絵などの日本美術が西洋に影響を与えた訳で、影響した浮世絵とその影響を受けた西洋の作品が並覧された展示でした。ボストン美術館が所蔵する作品が中心でしたが、その中にゴッホの『ルーラン婦人』が一点展示されていました。この作品は30号位で、ゴッホはこの絵の他に同寸でほぼ同じ図柄と色の『ルーラン婦人』を4点描いています。腰かけているルーラン婦人が黒い輪郭線で描かれているところまで4点の『ルーラン婦人』には共通しています。各作品にはその線が人物に帰属するものと、人物にも背景にも帰属しない場合の他に、両方の線が抑制気味に用いられている場合(今回の展示作品)といった、線の表現に違いが見られます。浮世絵の線は版によるものなので帰属しない線です。ゴッホは線の重要さを浮世絵から学びながら西洋古典のテンペラ画時代の線を4枚の『ルーラン婦人』で再現的に研究したのだろうと考えられます。これらの作品はゴッホが耳切り事件を起こした後、死の前年に描かれた作品です。ゴッホの狂気な表現が辛気臭い程のベーシックな研究に支えられていると思っています。この線の解釈は、先ほども述べた『アヴィニョンの娘たち』にも継承されていると思います。

栗本:最近観た展示では、それ程好きな作家ではないですけど、『バルチュス展』は良かったと思いました。あの画面の絵具の付きは向こうの人特有のものだなとは思いました。

今野:僕はどちらかと言うと後期の方が良いと思いました。あからさまな表現が後退しているからと言う訳ではなく、後の方がより人物の存在や佇まいを捉えようとしている気がしました。意識が全く異なっていると思いました。

斎藤:後期の線的な頃はカゼインの使用過多でとても脆い画面です。日本画的な線的な表現をする様になって、発色がマットなカゼインを使用するようになりました。バルチュス展ではピエロ・デッラ・フランチェスカのバルチュスによる模写が展示されていましたが、バルチュスの時代の少し前にロベルト・ロンギによるピエロの再発見がありました。透視図法に熱中したピエロの時代はまだダ・ヴィンチのスフマート技法が登場していない時代で、画面上の床や壁の平面的な部分と人物などの有機的な立体表現の部分とが画き割り的。ダ・ヴィンチのスフマートをすでに知っているバルチュスがピエロのプリミティブな表現に惹かれて彼の作品に応用したと思います。

栗本:最近観た展示で他に気になったのは、『イメージの力』と中村一美展ですかね。

今野:中村一美は学生時代から好きな作家でして、まとめて作品を観られた良い機会でした。中村一美という作家は、主に初期はアメリカの抽象表現主義からの影響を受け、そこから絵画の可能性を独自に切り開いてきた優れた作家だと思います。中村一美のスタイルは東洋思想に着想を得たり、日本のやまと絵や古い絵画が持つ空間性への関心が根を下ろしています。先ほど名前を挙げた野見山暁治はフランス滞在期に東洋の水墨画の魅力に気づき現在のスタイルに移行しましたが、中村一美の方は抽象表現主義から東洋に至ったという点で共通点も感じられ興味深い点が多いです。

栗本:中村一美の絵画は色彩がすごく感覚的です。会場の壁面まで作品の一部にしてしまう演出はとても新鮮で会場全体が作品になっている感覚が斬新だと感じましたね。の方は、 『イメージの力』民族学博物館から持ってきたもの、土着的なお面や人型の造形、お墓などをキュレーターが違う切り口から展示し、人間の意識による造形を歴史的に捉えるというものでした。最後のもの派を彷彿とさせる展示は疑問に感じるところもありましたけど、、、。

斎藤:この座談会で先ほどから出ている絵画の多視点という問題で、アントニオ・ロペスの『トイレと窓』と言う作品を思い出しました。二人ともアントニオ・ロペスの展覧会は見に行きました?

今野:何回か観に行きましたね。

斎藤:この作品では、窓を見る視点の画面と、下の便器を見る視点で、画面自体を別けて描いている。一点透視法でその二つを描いてしまうと不自然になってしまうので上下2枚の作品に描き分けています。この様な場合視点を連続して繋げて表現しているセザンヌの表現(例:『赤いチョッキの少年』)と比べると大きな違いが出てきています。『グラン・ヴィア』なんか観ても、透視図法を厳守しながら近寄って見ると印象派みたいな震える様な筆触ですね。フォルムは確固とした、一眼レフのパースペクティブに則ったもので、視点軸を用意して定規で計るなど、デューラーと同じ様なことをやっています。それに対して色彩は感覚的、ロペスの制作方法は二元論的な振れ幅があります。

栗本:やはり写真ではないんですよね。作品として描いているところに意味があると思います。きっちりした枠を設けて、誰にも文句が言えない様にしておいて、遊び心として盛大に好きなことをやっていると思います。

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今野 治:「発つ風景」油彩・キャンパス50号 2012年

今野:『グラン・ヴィア』では、場所はもちろん季節や時間を区切って何年もかけて描いています。筆触も印象派の様だけど、それは時間によって移り変わるものにも忠実であろうとした結果であり、時間を置いて加筆する時には、今目の前にある対象と共に、以前に置いた色やタッチとの関係で全体を考え直さざるを得なくなってきます。結果的に厳密さを追求することで過剰に積み重なってくる部分と、逆に厳密であるが故に放棄せざるを得ない部分が別れずに混じり合う多層的な表現になっている様に感じます。少し飛躍しすぎかも知れませんが、まるでジャクソン・ポロックの画面の様に、筆触や質、細部が全体を組み換えていく視点が感じられてとても興味深く感じました。今日本で溢れている写実とは全くの別物で、しっかりとキュビズムや現代美術の提示する問題も含めた上で写実と言う手法を選択しているのだと思います。

斎藤:ロペスは、日本人の描く絵はたとえ写実的に描いていてもスピリチュアルに見えると言っています。私たち東洋人の体内には水性絵具の伝統が根を下ろしていると言えます。それに加え油彩の技法や知識に関しては、歴史的に見てもしっかり受容されてきた訳ではないのです。現在になって、西洋古典絵画における先端的な技術や知識のレベルではやっと西洋と同じになったと思いますが、やはり厚みが違うのでしょう。しかし悲観的になることはないと思います。油絵具は原理原則に即して使えば、日本人的な油彩画でも良いわけで、さらに日本にはみずゑの伝統があるわけですから。

絵画の物質性について

栗本:私は学校で教えていて思いますが、油絵具は日本人に気質的に合わないのではないかと思っています。

今野:日本人の気質という事で、最近美術史を勉強し直す機会があって気になっていることがあります。中国や、特に日本には、いわゆる「レリーフ」って言う表現が少ない、もしくは全くないと思います。油彩の重層構造による造形感覚は、例えば「レリーフ」に通ずる立体的把握であると言えます。画面の手前へ、形や立体がせり出してくる西洋のレリーフ感覚は、表現としては中国や日本には根付いていない、もしくは感覚的に希薄な部分ではないかと思っています。東洋や日本の絵画空間は、画面のこちら側に出っ張る空間ではなく、紙の表面より下の層に浸透する様な空間が重要で、そこら辺の感覚を掘り下げて行くと油彩を体質に合わせ生かすことも可能なのではないかと考えています。

斎藤:確かに油絵具の重層彩色の場合は、絵具が支持体の上に積み重なってきます。しかし、古典絵画で最も厚く油絵具を盛り上げたレンブラントを見ても、絵画空間はフレームの奥に成立させています。重層彩色とレリーフは、なんらかの文脈の中でその関連を読むことができるかも知れませんが、直接的な関連は遠近図法の相違と解釈にあると思います。東洋や日本にもレリーフは少ないのですが、西洋でも各時代に平均的に造られていた訳ではなく、古代ギリシアにかなり集中しています。それは建築上の需要も多かったと思いますが、図像学的な違いもあったようです。一点透視図法における見かけの大きさは眼と対象との距離に比例するとの考えが一般的ですが、古代ギリシアでは、見かけの大きさは対象を捉えるときの視角の大きさによると考える「視角の遠近法」を用いたとパノフスキーは指摘しています。定規とコンパスを用いて作図する「視角の遠近法」は、湾曲する網膜像とも一致し、手前にもせり出してくる立体の作図法として適していた様です。一方、一点透視図法は、視線のピラミッドを平面で切断し、そこに投影された像として見るために平面絵画に応用しやすいものでした。しかし、単眼を前提条件とするこの作図法は幾何学的に正しくとも人間の肉眼で見る空間とはズレもできます。このことは透視図法を利用した画家たちが、早い時期から気づき時代や地域によって異なった主観的な改良を加え、高空間、近空間、斜空間などが誕生したようです。しかし、いずれの空間描出にしても絵画空間をフレームの奥に設定したことは共通しています。私の知る限り唯一の例外はカラヴァッジョの中期の作品です。彼の代表作であるサンルイジ・フランチェージ教会の三部作は、フレームの奥と手前に空間を設定しています。アメリカ現代美術の作家であるフランク・ステラは、カラヴァッジョを研究し、その空間設定を自分の作品の中に応用しています。この様に見てきますと、カラヴァッジョからステラ、その延長上には手前にせり出してくるマテリアルの存在も考えられるのではないでしょうか。

写7.JPG栗本 浩二:Southem Beach Hotel & resort 壁面画

一方、中国や日本の伝統的な水墨画の場合は、塗布された墨の多くが和紙に吸収されることで、描かれたところと白紙のところとの間にマチエールの差が少ないために、“余白”が成立すると考えます。もちろん水墨画の絵画空間は、等質で連続的な一点透視図法による絵画空間と異なることも要因です。

栗本:かつて芸大の試験では、水彩と油彩両方描かせていました。紙の地を生かして描く水彩の表現と、物質として存在感が強い油彩の表現、その両方の捉え方を確認するためだと思います。余白を生かしていくのが東洋、絵具を重ねていく西洋、この問題は物質主義なのか精神主義なのかという事とも関わってきて、例えば死後の世界の捉え方にも繋がってきます。日本には死者は共にあり、「死んだお爺ちゃんはいつも見ている」という感じなんです。一方、エジプトを始めヨーロッパでは、死者を骸骨やミイラとして具体的な物質として存在させておく文化です。道具から見方や捉え方が変わるという意味では、毛筆文化とペン文化という点も表現に関しては重要だと思います。日本の絵画表現には西洋で言うような奥行きはなく面の連なりがあるだけです。これだけ本質的な文化の違いがありながら明治以降、西洋的な捉え方で立体を描くことが重要とされてきました。ただ思うのは、今の若い人は油彩という物を自分なりに解釈して使っているという事です。外部から入った技法なり表現もどこか日本人的な感性で捉えていると思います。ちょっと前に流行ったピントがぼやけた様な絵画も、元は海外の現代美術に多く見られた表現でしたが、実は実体のない幽霊の様な、東洋に典型的な美意識やものの捉え方にも通ずるものがあってそれらは受け入れられた所があると思います。表立ってこないけれども日本人の心の中に引っ掛かる様な表現は継承されていると思います。

今野:ところで西洋では有色地や色画用紙が割と一般的ですよね。それに比べ日本人は白いままの紙を好む傾向にあります。日本人の趣向的には、素材そのものを生かすという感じもあるとは思いますが。

斎藤:有色地を使うと仕事が早く進みます。これは人間の目は暗い所よりも明るい所の方が緻密に見えるという視覚のメカニズムに合致しているからなのです。このことが油絵で実現するのは、ヴェネチィア派以後で、フランドル時代は板地の上の白亜の明るさを生かして暗部を彩色していました。当時は流動性の強い油絵具を使っていましたから。この技法がヴェネチィアに渡って大作を描く必要から支持体を板から帆布に変えて、油絵具は硬練りにすることで被覆力と可塑性が得られるようになり、早い段階から白色絵具を使いやすくするために、褐色系の有色地としました。これ以後、19世紀の中頃まで有色下地が続きました。今では当たり前になっている白いキャンバスから絵を描き始めるのは印象派以降のことです。

今野:日本に油絵が入ってきて一般的に拡がったのは印象派以降のことですよね。油彩だけでなく日本美術は古来から常に受動的に外部の様式を取り入れて、自国内で洗練、発達させてきた部分が大きいと思います。中国絵画と差別化させるために生まれた「やまと絵」という概念に関しても、中国的な主題や形式を日本の風土や情緒性に適応させて徐々に形成された訳ですが、その時の「和様化」に際して重要だったのは、やはり日本の家屋の造りへの考慮や関係性でした。ところで栗本さんは長谷川等伯の襖絵や屏風絵の空間性みたいなものに影響や関心があると以前お聞きしましたが、そこら辺の事を詳しくお聞かせ下さい。

栗本:長谷川等伯は、大学の時に訪れた古美術研修旅行で、改めてその美しさや形式美に触れました。私の1990年代の作品形態は、やまと絵の障壁画や屏風に見られる縦長形の作品にも影響を受けて制作しました。障壁画は、絵画の優美さや力強さがあり、一枚の絵を数枚の画面に分割して成立させていますが、一枚ずつの作品として見ても成立していると感じました。この二面性の関係は、作品が持つ繊細な組み合わせや画面構成によって表現されています。そこで自分の作品においては、一枚の作品としての在り方と組み合わせたときの在り方を、全体と部分の関係や、色彩と室内空間との関係、といったそれぞれの作品の意上で色味が室内空間に影響し、新しい要素として成立する空間を表現していました。

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斎藤國靖:「誕生」油彩, 綿布120P

今野:栗本さんの作品は特に色彩が固有の魅力を発していると感じますが、色彩に関してはどうですか。

栗本:色彩に関しては、障壁画ややまと絵の金箔を使った表現にも魅力を感じ、いくつかの作品で金箔と黒鉛を使った作品を制作しましたが物質としての主張が一方方向で広がりが出ず、うまく使いこなせず諦めました。金はトーンの変化が反射によるものでしかないため、画面の形態や構成要素として表現に取り入れていましたが、色調の変化で見せる方が自分には合っていると感じました。

今野:油彩の物質感や表現についてはどうお考えですか。アクリルや油彩を使用している様ですけど。

栗本:一通りアクリルで描いてから油彩に入りますが、やはり油彩の発色、物質感はピカイチだと思います。アクリル絵具は扱いやすく下地としてラフに使えるところが気に入っています。質的には問題点もありますが、仕事が早く進むことやイメージを逃さず制作できるところが良いですね。色彩にはエネルギーがあり、その強さから感化される力に魅力を感じます。また、色彩には外へ広がろうとする彩度の高い色と、内へと潜ろうとする彩度の低い色があり、そのバランスで一線が保たれているのですが、あえて彩度の高い色のみで強烈なエレルギーを噴出する様な絵画を造ろうと試みたこともありました。その強烈な力を支えるのが余白の白い壁と隙間の空間でした。そこから次第に色彩の強さを強調した作品から色彩の調和を取り入れた作品へと変わっていきました。色は無数の諧調を作ることができ、イメージさえ合えば歌い出す様な表情を見せてくれます。特に油絵具は物質的で、絵具と言うよりは粘土に近いものに感じます。粘調度も自由に変えることで様々な表情を見せてくれますし、混色も何十種類もの変化を楽しめます。絵具を重ねたり並列に置いたりすることで生じる相互作用は、イメージとの関係で色々な感情を表現できると感じています。アナログであればあるほど、描き手の意志によって表現ができるのが油絵具だと思います。

斎藤:栗本さんの今の話を、ベストセレクション展に出品した栗本さんの作品を思い起こしながら聞けましたので実に良く分かります。他団体の優れた作品が並ぶなかで栗本さんの色彩はパワフルで新鮮に見えました。ところで、この展覧会は初めて見る様な団体名もありましたが、どの様な主旨の展覧会なのですか。

栗本:今回行われたベストセレクション展は、東京都美術館が主催し全国の美術公募団体の中から選抜した27団体による合同展覧会で、2012年より開始され5回の開催予定で今年3回目となる展覧会です。趣旨は芸術活動の活性化と鑑賞の体験を深める場という役割を担うということです。まず、東京都美術館が主催していることが非常に興味深いし、芸術に関しては、私のイメージですが公共の企画で公募展に対して展覧会を行うことは嬉しく感じます。27団体の作品展示に関しては、各団体の特色が拝見でき有意義なものであると感じました。

今野:確かに様々な団体の特徴ある作品を一度に観ることができる貴重な機会だと思います。見比べたりすると各団体の特徴が良く見えてきて面白いと感じます。

栗本:今回ベストセレクション展に参加して感じたことですが、この企画の意図は様々だと思いますし賛否両論あるとは思うのですが、もっと美術を広げていくために活用できる要素になるのではないかと感じています。特に絵画においては、個人的にはまだまだ可能性を持っているし、新しい時代とともにどんどん形を変えた表現が生まれてくるものだと考えています。もちろん不変の美も存在しますし、歴史に残る偉大な作品も存在しますが、さまざまな作家の「今を表現できる場」として感じた展覧会でもありました。自由美術の作品は、他の団体と比べよい意味で自由な表現作品が目立ちました。みなさんがそれぞれの自己表現で制作していると感じました。

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斎藤 國靖:「絵画または引用について」油彩・テンペラ, 120S

今野:会期中にアーティストトークという企画がありましたがいかがでしたか。

栗本:なかなか緊張して話をするのが大変でした。そこで感じたことは、以前からの自分の問題でもありましたが第三者に自作を言葉として語れるか、ということです。このことについての経験は少なかったと思います。作品は表現ですので作品に語らせることは大前提ですが、そこからの展開も考えていかなければと感じました。

画家が語るとは

斎藤:最近の展覧会では、アーティストトークやギャラリートークという形で画家が語ることが多くなりました。画家は絵がすべて、という考えもあり、語らないことが美徳と言った風潮もありますが、制作行為は連続していくものですし、一枚の作品制作の中でも言葉は無視することができないわけです。先ほどの表出と表現ということから考えても制作の考えを明瞭にすることは大切でしょう。アーティストトークの延長線上には、社会問題に関する発言も含まれてくると思います。トークして声を上げる様な時代状況になって来たように思います。今野さんはデモに参加されたようですが、、。

今野:この前集団的自衛権の閣議決定に反対するデモに初めて参加しました。

栗本:各世代で温度差が凄くあるのが気になります。特に若い人の間ではどちらかと言うと賛成みたいな空気があります。無知なのか、大きなものに巻かれてしまっているのか、分からないのが怖いと思います。

今野:今の政治や時代の流れは、自分にとってはとても危機的に感じます。今回の件については、民主主義の原則からは大きく逸脱する手順で重要な事柄が次々と進んでしまったので、このままでは見過ごすことができないと思い、選挙に行って投票するということ以外の方法で態度として一度示したいと思ったのです。それに加え自分以外にも同じ様な意見を持つ人がいることを肌で感じ取りたかったということもあります。昔と同じ様な「戦争」という形には必ずしもならないとは思っていますが、今はもうすでにテロの時代に突入しています。今回の閣議決定はそのきっかけとなるものが出来たのだという認識は持たなくてはならないと思っています。少し前に起きた秋葉原の通り魔事件やボストンでのマラソン大会での事件は、自分にとってホームグロウン・テロの例を具体的に生々しく提示するものでした。これからテロリズムは世界中で確実に増えていくと思います。美術や芸術にある程度深く関わっている人間なら、その土台となる社会の中の大きな枠組みや、個人にも浸透してくる政治的な動向には敏感にならざるを得なくなってきます。

斎藤:強圧的な政治権力者による非民主的な行為はテロリズムであるし、グローバルとかの格差社会で、追いつめられた個人が、刃物をふりかざし、爆弾をしかけることがホームグロウン・テロリズムなのでしょう。このようにテロ主体が、権力者であったり、個人だったり、集団の場合もあるわけで、それらが連鎖的にたちあらわれてくる今日の状況を、今野さんはテロの時代に突入したと指摘されたと思います。

権力者によるテロは、言わずもがなですが、秋葉原のこと、ボストンのことは、倫理的には強く批判されるべき側面と、もしかしたら、もう一人の自分自身の仕業であったかもしれないという想像力は残るのではないでしょうか。刃物や爆弾を絵筆に置き換えれば、テロ行為と表現行為は通底してきます。非才な私の能力を超えた牽強附会な倫理かもしれませんが、

かつて自由美術は左翼団体と思われていたようです。自由美術の多くの仲間がデモにも参加しています。当時のことを本誌の「エッセー自由美術」で伊藤和子さんが記述されています(40ページ)。食糧さえも充分でない困難な時代なのに、未来に向う明るさが感じられます。教条主義的に言えば、革命が歴史的必然と考えられ、目の前の支配階級を打倒すれば未来は開けると考えられた時代だったように思います。そこが今日の八方塞がり的な状況との違いではないでしょうか。

栗本:政治や美術にしても一人だけではなく多くの人を巻き込む様な場がもっと必要だと思っています。僕が自由美術に入った頃は、展示会場で色々な人の絵をたくさん見て、この自由美術と言う共同体として何か出来ることがあるのではという思いがありました。色々なイベントを行なおうと掲示を作成して貼りだしたりしましたが、一人だけの思いだけではなかなか実現が難しいことも知りました。自由美術の展示も東京展ぐらいは何か実験的な試みをしてみても面白いと思います。例えばキュレーターを入れて具体的に展示プランを練ってもらうなど、ユニークな展示をしてみたいです。ギャラリーと提携した新しいテーマのもと展覧会を開くとか、、、そういう事をしていかないと活性化していかないとも思います。

今野:現在自由美術の展示作業は少ない人数で限られた日数で行っています。何回か参加しましたがとても大変な作業だと思いました。多くの会員の方がとても苦労をされています。ですからこれからの展示の在り方を考える場合、キュレーターを入れるというのは現実的に考えても良いかなとは思います。本展では難しいかも知れませんが東京自由美術展では実験的に若い学芸員などに声をかけて数人の会員と共同で展示計画を練るということも面白いと思います。これは聞いた話ですが、二紀展の場合は茨城の地方展の会場に、活躍中のフリーの作家で、最近玄人筋でとても評価が高い野沢二郎という作家の展示スペースを作ったそうです。その様な思い切った展示も他の団体でも次第に考え始めています。自由美術の場合は、思い切った小さなサイズの作品ももっとあって良いと思いますし、そういう作品が入ってくれば展示のメリハリもより出てくると思います。

栗本:作家集団である自由美術協会については、これからどこに向かっていくのかなかなか難しいところだと思います。自由美術協会という会でも人によって考え方も違うし認めあえる内容も違ってきます。また運営よりも自作に時間を費やしたいこともあると思います。それでも先ほど話したように東京・自由美術での新しい試みの提案みたいに新鮮なアイディアが出ることにより、個々の作品に対しての相乗効果が得られるのではないかと考えています。

斎藤:今回の座談会は実に多くの問題意識を共有できた貴重な機会となりました。栗本さん、今野さん、色々な話を長時間に亘りありがとうございました。

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斎藤國靖・栗本浩二・今野 治

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