森山 誠 「memory 13− 1」  

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私が自由美術に出品を始めたのは1971 年。自由美術は当時の私にとっていわば美術学校であった。毎年一度北海道から上京して自由美術展に並べられた自分の作品と他の作品をじっくり眺めた。また、自由展の会場やそのあとで集まる居酒屋などで先輩会員の話をこっそりとしかし貪欲に聞いた。そんな場面で具体的な絵の話はめったに出ないが、たまにふと絵について先輩達の考えや技法の話などを聞くことができた。 そんな中でとりわけ印象に残っているのは自由美術に出品を始めて暫くのころ、ある会員から聞いた「絵は平面に空間をつくる作業だ」という言葉。 この言葉はその後、私の絵の方向に大きな啓示となった。 その頃から私はキュビズムの勉強を始める。キュビズムから画面の構成と省略とデフォルメを学び、そこから徐々に私の絵が作られてきたような気がする。 画面のどこかに物(物体)を置くと、置かれた事物がその周囲に空間をつくる。空間とはリアリティであり、事物はどこにでもいる人間であったり卓であったり器であったり、また一本の瓶であったりする。その物体と空間とのバランス、置かれる物の配置、走る線の動きや方向、画面全体の動きとリズム。こんな作業が今の私の絵ではなかろうか。 事物は具体的ではあるが、なるべく説明的になってはならないこと。私の絵は事物そのものを描くのではなくその物を取りまく空間を描くのだから。そこにある存在が確かであればそれ以上のものではないということであろう。 そしてまた、必要な事物以外はなるべく省略あるいは曖昧に処理して、その部分を敢えて残すということ。それによって描かれる物の存在はより鮮明である。 そしてもう一つ、絵に叙事的あるいは叙情的な情景や情感を加えないということでありむしろ排除する。叙事叙情は単純を阻害すると思うから。色彩は画面の中の形や線を主眼とすることから色数は少なく最小にとどめている。 こうして描いては消しまた描いては消す作業が続く。描く時間はその都度短く、描いては離れ間をおいて戻ってまた画面に手を入れる。戻ったときの瞬間の感覚を大事にしている。絵は感覚であると思っているから。キャンバスに油絵具、そして筆と刷毛とペンティングナイフと指先と布と定規を使う。パートの部分とグラッシの部分が交錯する。溶き油は筆洗いと同じ容器に入れた揮発性油を使う。私の絵はとても粗雑な描き方と言われるかもしれない。だから私の絵には完成がなく、いつも未完で出品している。 しかしこうした描き方や考え方の多くは、かつて自由美術にいた先輩作家の言葉や作品から教えられ培われてきたことである。 絵は人それぞれであり、どんな描き方や考え方が良いかは問題外であろう。しかし、正直私のこれまでの絵に対する考えや技法がはたしてよかったのかどうか、制作する中でどこまで考察し反省したかを考える時、忸怩たるものがあるのは確かである。現状に停滞することなく制作の方法や精神にもっと脱皮と破壊が必要であることは絶えず考えてはいるのだが、結局は自己模倣に終わる。制作の中で大切なのは多少でもこれまでの絵から断絶し、新しい方向に踏み出さなければならないということであろう。そんなことを考える毎日が続いている。