森 真「彫刻の仕事」

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「甘噛み」

つくる上で気を付けていること、良くないこと、 恥ずかしいと思うことを話してみたい。

「発想」何かをつくり始める時、やっかいなこ とは、あたかも確たる構想や論理的な根拠めいた ものに沿って進めようとしたり、発表する時の他 人の目などを気にすることだ。何か不自由な自分 がそこにいることに気付く。まるで風邪のひきは じめ、悪寒におそわれる如き心地だ。良薬もなく 困ったことだ。どうしたら克服できるのか。そこ で、つくりはじめがどんなものか思い出してみる。

「初動」ひたすら粘土を準備する。何日かかけ て1トンくらい練る。不安が消えてゆくのを待つ。 ひたすら何かを待つ。発想めいたものは、どうや ら手が覚えているらしい。

「一粒の土が形を左右することもある。」故

峯 孝氏は、私のアトリエに来ると床に落ちた粘土を 拾ってそう言った。そして小指ほどの横たわって 頬杖をつく少女をたちまちひねったりする。どう してその様なことが出来るのか驚異に思えたが、 実は彫刻家の中には既にデッサンや形があって、 そんなことは雑作もない事だと今は気付いてい る。アトリエの床はコンクリートだが、毎日モッ プがけをするのは粘土を拾うためだ。

「デッサンすること、そしていやなこと」写真、 そこに何も写っていないことは、もう何年も前か ら気付いている。よく、展示した自分の作品の写 真を頂くことがあるが、同一のものかと目を疑う ことがある。同じことで、3Dプリンターのやっ ている、実に正確でおろかな作業もデッサンの対 極にある行為だ。これと同じことをすることが、 いやなことだ。デッサンをすることは、「その様 にみえる」ことをめざすために大切なことである。 デッサン力というものが問われるとするならば、 そこが体内にきちんと出来ているか否かをもっ て、説得力のある形かどうかを分ける。

「恥ずかしいこと」彫刻家と不思議ないきもの たちという題で個展をしてみた。彫刻展などと看 板を出したとたんに、芸術作品の展示会が催され ていますと言ってるみたいなことから、少し離れ てみたい気がしたからだ。芸術という響きは、芸 能とか忍術みたいなものをまぜたような言葉のイ メージがあって馴染めない。ほんとうはそんなこ とはどうでもいいような気がする。

何が恥ずかしいかは、自分の目を信じないこと であって、誰かが決めたことにふりまわされてい るつくり手の存在なのだ。きっと良くない仕事に 駄目を出す勇気が必要だろう。