國定正彦 「私の絵画とアニミズム」

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いつからでしょうか、嫋やかに流れ行く雲をボンヤリと眺めているうちに、その形が少しづつ様を変え、その度にそれが様々なものに見えるようになったのは。

木立の木漏れ日が道に影を落とし、風に微かに揺れ動く時、その影の薄い膜が生き物の様に呼吸し、母親が胎児にするそれのように、何かを語りかけていると感じるようになったのは。

雨上がりの濡れた木の幹の木肌が一所乾き始め、だんだん顔の様に見えてきて、それが「その木に住む木霊ではないか」と感じるようになったのは。

遠くの山並みが風に吹かれ、木々が大きく波打つとき、その風紋がとてつもなく大きな蛇に見えたりするようになったのは。

絵画に造詣の深い皆様にも同様の経験がお有りだと推察いたします。

ただ、私はそれらがあまりにも顕著な時、「そういったものが見えるのは私の精神状態が不安定だからではないか」と思った事もありましたが、なんとか、社会生活も続けていられるので、そうでも無いようなのです。では、なぜ好むと好まざるとに関わらず、そんな風に見えたり感じたりするのかを自分なりに色々と考えてみたところ、現時点でのその問いの答えこれは、恐らく私の心が「繰り返される自然や生活の中に神聖なものを見いだそうと求めている」ために、その心の投影として見えている、もしくは見させてもらっているのかも知れない、と思うようになりました。

幼い時からそれらを見たり感じていた気もしますが、善く善く思い出してみると、それらが顕著に見えるようになったその一つの要素は20 数年前に私の家が水害にあって浸水したことが大きいと思うのです。

いつもと変わりない今日であるはずのその日、突然訪れた招かざる訪問者。

文字通り滝の様なもの凄い豪雨と迫りくるカオスの如き濁流、川のこちら側と対岸では全く違った時間が流れていました。

ちっぽけな一人の人間には到底たどり着く事のできない遥かな意思が与えた戦慄、通過儀礼のような体感した事のない恐怖と苦しみ、そしてその後も同じ事象が繰り返されるのではないかという自然への畏怖と、平穏な生活への祈り、その繰り返しの中で少しずつ、先に言ったような感性を体得したような気がするのです。その為に水難に合う運命だったのか、自分で求めたのかそれは分かりませんが、訓練だけでは到達できない、不思議な感性を体得したのかも知れません。もしかすると、それを、アニミズムと呼ぶのかもしれないと思う今日この頃です。

そして、同時にそれは、私に幼子のように自然の持つ命の息吹や美しさを感じ取れる喜びも与えてくれました。

自然が見せてくれている、答えてくれている、様々なものが啓示なのか、錯覚なのか。

自分だけに見えた事に意味があるのか、ただの偶然なのか。

それらと葛藤しながら、少しずつでよいので、頂に近づければと思い今日も訪れるビジョンと格闘しながら描き続けているのです。